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2006年07月27日 |
●戦下のサラエボ、その後
セルビアのベオグラードからバスでサラエボに到着したボクら。次の目的地クロアチアへ向かうバスが出るまで2時間できたので、サラエボの街を見て回ることにしました。
1984年冬季オリンピックが開催されたほどの近代都市サラエボ。しかしサラエボの印象といえば、1992年〜1995年までつづいたボスニア・ヘルツェゴビナ戦争のほうが大きいです。
民族問題の関係もあって激化した殺し合い。死者、難民が続出し、サラエボの死者1万人以上を含むボスニア・ヘルツェゴビナの犠牲者は20万人を超え、史上最悪の泥沼戦争となってしまったそうです。
到着した時間が夕方であったこともあり、だんだんと暗くなるサラエボ。
限られた時間を活用したいために、ガイドブックの目を引いた「オスロボジェーネ新聞社 Oslobodenje」を訪れることにしました。
紛争中、1日も休むことなく新聞の発行をつづけた新聞社。社員さんは地下の核シェルターに泊り込みながら仕事をしていたそうです。
ガイドブックに載っている「オスロボジェーネ新聞社」の外観写真はボロボロ、、、今にも崩れ落ちそうな建物。5年後の今はどうなっているのだろうか?
タクシーの運転手さんに声をかけて、「この場所へ連れて行ってほしい」と頼みました。
英語は通じませんでしたが、「Oslobodenje」の文字を読み取ってくれて「OK」の返事。ネオンが灯りだしたサラエボのメイン通り、通称"スナイパー(狙撃兵)通り"を走っていきます。
バスターミナルからおよそ10キロ。ドライバーさんが先に光る建物を指差し、何やら言っています。タクシーが近くで停まると、建物に「Oslobodenje」の文字が!
あらっ!
もう建て直されたんだ!!
ガラス窓に覆われた光る宇宙船のような建物がサラエボの街でひと際目立っていました。
言葉が通じないと分かってくれているドライバーさん。「一度壊して、それから建て直したんだよ」とジェスチャーで教えてくれます。
ほかにも標的にされたツインタワービルも下から修復され、今ではきれいなビルが街の中心に建っていました。
(もう10年経ってるんやもんなぁ・・・)
街の中心が戦後から変わっていなかったら逆にビックリしていたかもしれません。
ボクがやたらとカメラを向けるので「写真好き」と気づいてくれたか、「何かの取材」と思ってくれたのか、ドライバーさんいろいろ遠回りしながらサラエボの街を見せてくれます。
タクシーを走らせながら、駐車場の壁に残った銃弾の痕を見せてくれたり、
「この地区は被害が大きかったんだよ」。
そんなジェスチャーで、マンションが建ち並ぶエリアへ連れて行ってくれたりしました。マンションの壁には、無数の銃痕がコンクリートで埋められ、あとは塗装で仕上げるのを待っているといった感じでした。
戦争の傷跡は、まだ残っています。
でも中心部は修復され、新しいサラエボの街が出来上がって行く様子も感じました。
戦争の後、ボクらのような旅行者がやって来れるくらいになっているんですから、街が主要部が整っていることは当然のことかもしれません。
街を通ったとき、"橋"のたもとでヨーロッパ観光客の人たちが熱心にガイドさんの話しに耳を傾けていました。
「ラティンスキー橋」。以前の名は「プリンツィプ橋」。この橋でプリンツィプという人が起こした暗殺事件をきっかけに第一次世界大戦がはじまったそうです。
繰り返してはいけない過ちを学び、明るい未来のために発展していきたい。。。
そんなこと感じたサラエボの夜でした。
きょうさん♂
今日も読んでいただきありがとうございます♪
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