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2006年09月14日 |
●アウシュヴィッツの教え
アウシュヴィッツについて、本やガイドブック、インターネットで概要はつかんでいたものの、実際に現場にやってきて目の当たりにすると、この出来事の規模の大きさに驚きます。
ドイツ軍敗戦までの4年間で殺害された人の数、約150万人。神戸市の人口が150万人ほどだったので、神戸の人がみんないなくなってしまう数です。
到底リーダーであるヒトラーひとりではできなかったこと。そもそも、ヒトラーはベルリンにいて、一度もアウシュヴィッツに来たことはないそうです。つまり、ヒトラーの周りにいる人、ヒトラーの演説を聞いた人が、ヒトラーの考えに共感して、実行できていたことになります。
「ユダヤ人を絶滅しよう」。
反ユダヤ主義の歴史については、このときに限らず、ロシアやアメリカでも起こったことらしいのでもっと歴史を学ばなければなりません。ただヒトラーが政権を握っていたころは、反ユダヤ主義が「公式な政策」のひとつになっていたというんですから驚きです。
収容所の監督権を持っていた秘密国家警察ゲシュタポ、収容所初代所長のルドルフ・ヘスや武装親衛隊を率いていたヒムラーなど。また囚人が囚人を管理できる仕組みになっていたというんですから、ユダヤ人虐殺に至った経緯はヒトラー個人の問題ではなく、「ユダヤ人は害虫である」といった人間が持つ「差別意識」のようなものから芽生えてきたように感じるのです。
さすがに今の世の中、「人を絶滅しよう」なんて風潮はありませんが、人を差別するのではなく、人と区別して、自分の至らぬところを知り、真似たい部分を吸収する、そんな他人(ひと)と共存できる人間でありたいと思います。
なんて言うものの、自分がその時代にいて「言うことを聞かなければ殺す」って言われていたらどうしたでしょう?「ユダヤ人を殺さないとお前を殺す!家族を殺す!」って銃を突きつけられたらどうしていたでしょうか? 死ぬのは嫌ですから、もしかすると言う通りに殺すような気がします。。。
頭では(良くないことだ)って分かっていても、その状況によって自分で理由をつけたり、意見を変えたり、決断できるんですから、人間って、よく分からない生き物なのかもしれません。
殺人工場だったアウシュヴィッツに植えられていたポプラの樹。当時の収容所の様子を描いた絵には建物1階分の高さなんですが、60年経った今では建物2階をはるかに超える高さに伸びていました。「殺す」ことが当たり前の場所で「育てる」気持ちも同じように持っていたことになります。
生地が薄い囚人服は寒さから身を守ることができず、コンクリートの上に置かれたわらの上で囚人たちは寝ていました。冬のポーランドはマイナス20度になるそうで、いつ凍え死ぬか分からない環境。部屋の片隅には「ひと晩で死んでもらっては困る」と暖炉が置かれています。
初代所長ルドルフ・ヘスの死刑が執行された絞首台を見られますが、その近く、ほんの100メートルほど先にヘスの家がありました。ヘスは奥さんと5人の子どもと一緒にそこで暮らしていたのです。家では夫であり父親の顔を持つ一方、アウシュヴィッツに来ては女性や子どもを含む人を簡単に殺していました。ヘスだけではありません。アウシュヴィッツを管理する多くの人はこの近くで家族と共に暮らしていたのです。いったいどんな気持ちで家族と向き合っていたのでしょうか。
そんな人間が持つ矛盾の部分にも気づきます。
逆に、こんなことも感じました。
ユダヤ人が持ってきたものを奪う理由を「ユダヤ人に奪われたものを奪い返す」と正当化し、180度違った理由をつけることで納得することができたり、ドイツ第三帝国が掲げた「危険な存在を排除する」というような大義名分があれば、どんなことでも忠実に実行することができる。
つまり、「ビジョンや目標がはっきりとしていれば、人間は困難なことでも実行実現することができる」ということ。男前でもなかったヒトラーがカリスマ性を示すことができたのは、きっとヒトラーの発するビジョンが市民に伝わったからでしょう。人を絶滅させるような恐ろしいことではなく、世のため人のためになるビジョンを持って困難なことにも励んでいきたいです。
アウシュヴィッツに残された勇気ある話。
ドイツ軍占領下のデンマークでは、デンマーク人が協力して8,000人のユダヤ人を小さな船で中立国スウェーデンに脱出させたといいます。
リトアニアに駐在していた日本人外交官、杉原千畝(ちうね)さんは、ポーランドから逃げてきた6,000〜8,000人のユダヤ人に対して、本国外務省の命令に逆らいつつも日本通過のビザを発行して命を救ったといいます。
囚人が収容所内で生命の危険を感じながら撮った写真が見られます。それは歯磨き粉のチューブにネガを詰めて収容所外へ送った7枚の写真の一部だそうです。
ほかにも名簿や資料などを収容所外部へ送るなどの囚人たちの抵抗運動や、収容所から開放された人の中にいた画家のおかげで、当時の収容所内の様子が絵で見ることができるアウシュヴィッツ。
どれも人の勇気を感じます。
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日本は、当時のドイツとイタリアと「日独伊三国同盟」を結んでいました。アメリカ、ソビエト、イギリス、フランスの連合軍に敗れてしまったのですが、もしドイツが勝っていたら・・・
アウシュヴィッツ殺人工場は続いていたのでは?
そんなことを感じつつも、自分で自分の人生を決めることができる今の時代。
死にたくない、もっと生きたい!だからこそ毎日を大切に、やれることをしていきたいです。
きょうさん♂
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