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2006年09月29日 |
●バンコク病院のビックリ
バンコクってホコリがすごいんですかね、、、滞在3日目の朝起きると、うっ・・喉が痛い!
つばを呑みこむだけでも痛い、、、
「バンコクの病院はいいですよ!」と友だちに聞いていたので、ここぞとばかりに行くことにしたんです。
タクシーで着いたらビックリ!!
(ここはホテルか?)と思うような豪華なフロント。なんとドアボーイがタクシーのドアを開けてくれるんです。ようこそいらっしゃいました!って笑顔でお迎え。そんな病院、見たことも聞いたこともありません。
日本語通訳がいるという2階へ行ってみると、受付はタイ人ばかり。(あらら・・・どうしよう?)って思ったら、「はじめてですか?」と堪能な日本語を話します。またまたビックリ!
書類に記入して待つ間、テレビに映っているのは懐かしのNHK。今日付けの読売新聞が置いてあったり、ご自由にとミネラルウォーターや飴玉が置いてあったり、すんごいサービスだぁー
診察室に呼ばれると、日本語ペラペラのタイ女性のお医者さん。5分ほどの診察で、「のど風邪」と診断されました。診察とかは同じなんですが、なんてたってタイ人ですから変な感じです。看護士さんでさえ「あちらで掛けてお待ちください」と日本語で言ってくれるんです。
もう一箇所、背骨の痛みもあったので、ついでに整形外科でも診てもらったんです。すぐ横の建物なんですが、なんとカートで移動。スタッフ同士、カルテをリレーのように渡して、迷うことなく連れて行ってくれます。
整形外科の先生はタイ人。でも常駐の日本人通訳さんが、待っていてくれました。いくつか問診を受けて、念のためレントゲンも撮ってもらいました。着替えて診察室に戻ると、すでにレントゲン結果がパソコンの画面に!なんて早いんだぁー とまたビックリ!骨の異常ではなく、その横の筋肉が炎症しているらしいと、わかりやすい先生の説明。
薬を出すので5日経っても症状が変わらない場合は、また来てくださいと予約も入れてくれます。かゆいところまで手が届いてくれる感じです。
こんな素敵なサービスは一部の人だけではなく、病院にいる人みんななんです。タイの人たちの笑顔を見ていると、日本みたい!いや日本以上かも!!とっても癒された病院でした。
「あちらの掲示板にこの番号が表示されたらお会計となります」と銀行みたいな番号札を渡してくれます。便利だなぁ〜 ちなみに治療費は、約23,000円。タイの物価からすると、ビックリするくらいの値段の高さ!あ〜海外保険に入っててよかったぁ〜。
それにしても薬を入れてくれる紙袋、なんだかプレゼントみたいでした。こんな病院ならまた来たくなる!?
たかさん♀
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2006年09月23日 |
●カリスマ美容師の技と心
ルーマニアでバリカン丸坊主にして以来、伸び放題だったボクの髪。長髪でも気にならなければいいんですが、耳の周りに髪の毛が届くとチクチクしてダメなタイプ。そろそろ散髪したいと思っていたころ・・・
東京で美容師をしていた男性に、イスタンブールのお宿で出会いました。
はさみやカットの道具を持ち歩いているとのことで、ダメもとでカットのお願いしてみたら快諾!さっそくお宿の地下室でカッティングタイムがはじまりました。
「喜んでもらえるとうれしいですから!」
彼の名前は達矢さん。宿で出会ったときの第一印象は(人当たりのいい人だなぁ〜)でした。さわやかスマイルはもちろん、穏やかな口調を聴いていると(きっと接客業をしていた人なんだろうなー)なんて感じていたんです。
自分たちも添乗員という接客業に携わった身ですから、“第一印象”がその人の人格を表現する大きなポイントであることは知っているつもり。そういう意味で達矢さんの人柄は魅力ある雰囲気がありました。
「若いうちにいろいろ見ておきたいと思ってー」。
ボクらには美容師さんの世界はよく分かりませんでしたが、将来、もっと多くのお客さんに接するようになるとなかなか辞めにくくなるそうで今の時期に世界を見て周っているそうです。
そんな達矢さんが動かすはさみの音。。。実に心地がいい〜 男性、女性、日本人、外国人を問わず旅先で出会った旅人の髪の毛をよく切ってあげているらしく、まるで、彼が毎日働く美容室にいるかのように手際よくカットしていってくれます。
立ち位置を変え、はさみを変え、切り方を変え、ほんの15分ほどですっきりさっぱり「(自称)オシャレカット」に仕上げてくれました。わぁ〜い!!
「いっぱい、お客さん いたんでしょう?」。謙遜する彼でしたが、手さばきやカット中に展開する会話のバリエーション、笑顔、そして人当たりのよさを感じていると、(きっとこういう人がカリスマ美容師っていうんちゃう?)と思いました。
それでも美容業界に詳しい彼からすれば、カリスマ美容師という響きに惹かれるものは特になさそうで、新たなビジョンを描いているようでした。
「もうしばらくしたら日本へ戻るつもりです」。
ボクにはまったく感じませんでしたが、期間が空いて技術が落ちることを懸念しているようでした。
有名ピアニストの練習に関する言葉を聞いたことがあります。「一日休めば自分に分かる。二日休めばパートナーに分かる。三日休めば観客に分かる」。
ボク以降もゾクゾクとカット予約が入る達矢さん。彼のお店が開く日を楽しみに、彼の夢を応援したいです!そして夢を抱く大切さも感じさせてもらいました。達矢さん、ありがとー
きょうさん♂
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2006年09月22日 |
●さようなら、せかたび号
「せかたび号」。
買ったお店で、買い取ってもらうことができました。
今から1年3ヶ月前。
物価の高いヨーロッパを低予算で周るため、エストニアで購入したマツダの中古車。私たちは「せかたび号」と名付けました。
せかたび号、数々の思い出。。。
日本で6年間愛用していた軽自動車ビストロよりも愛着があります。“できの悪い子ほどかわいい”というんでしょうか?度々トラブルを起こしてくれる「せかたび号」には、よく悩まされました。
買って二日後、フィンランドへフェリーで渡る前のことでした。ガソリン代の安いエストニアで少しでも多くのガソリンを入れておこうと満タンにしたら、ガソリンタンクからポタポタと漏れてくるんです!
修理屋さんに来てらい無事に直りましたが、あのときが一番怖かった。だって(爆発するんじゃないか?)ってドキドキしてたんですから〜(笑)。
その後もつづく「せかたび号」のハプニング。何度も故障やトラブルに遭うと、度胸がつくのか、対処方法を知るからなのか、(修理をすれば車は動く)ということを知りました。
そんな修理を重ねる度に、「せかたび号」に愛着が湧いてきました。そして物価の高いヨーロッパでは、衣食住を共にしてきた間柄です。
「外国での車の旅」を反対していた両親は、もしかすると少しは安心してくれるかもしれません。。。
でも、この「せかたび号」のおかげで、出会うことができないような人々と出会えました。それが一番うれしいこと、私たちの大事な宝物となっています。「せかたび号」とはお別れしましたが、私たちの中でもずっと生き続けてくれるはずです。
この広いヨーロッパ大陸。北はノルウェーのノールカップ岬から、西はポルトガルのロカ岬、南はスペイン最南端まで、そしてイギリスも最北端、最西端ときょうさんひとりで事故もなく運転してくれました。どれほどプレッシャーがあったか分かりません。安全運転やトラブル対処、車の修理などなど。きょうさんがいたから素晴らしい旅ができました。
何より、「せかたび号」が購入できたのは、エストニアの日本人大使館で偶然出会ったエストニア在住の日本人の方のおかげです。その方にお会いできていなかったら、私たちの車の旅はありませんでした。感謝の気持ちでいっぱいです!
私たちにとって、エストニアという国はとても特別な国です。
またいつの日かエストニアに戻って、車で走った道をゆっくり歩きたいです。
さようなら、せかたび号。そして・・・
ありがとう、せかたび号!!
たかさん♀
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2006年09月21日 |
●あっさり売れたせかたび号
(いくらで買い取ってくれるんだろう?)
(そもそも買い取ってくれるんだろうか?)
ポーランドあたりからそんな心配事が出ていた「せかたび号」。買ったのはいいけど、売れなかったら困ります、、、
ガソリンタンクも直したし、タイミングベルトも換えた。マフラーもタイヤも、エンジンオイルのパイプや冷却水まで新しくしました。
買ったときよりも車の状態は絶対いい!
でも、後部ガラスの境目から漏れる雨を防いでいたテープは劣化して汚くなっていたし、フランスニースで遭った車上荒らしで壊された鍵穴はそのままでした。チェコで壊された窓ガラスは、ヨーロッパ中を探してもらったけどなくてなんと強化プラスチックで賄い。なので開かない窓。。。
購入額は、17,000Ekk(約161,500円)。
修理費用は、10万円相当。
(5万円にもなればいいなぁー)
そんな願いで、買ったエストニアの中古車店を訪ねました。
敷地に建設中の建物を見ると、この中古車店が大きくなっている様子を感じます。でも買ったときにいたボスはいませんし、担当してくれたトーマスの姿もありません。
(参ったなぁ、、、話が通じないかなぁー)
不安が募る中、迎えてくれた男性に声をかけました。
「昨年6月にこの車を買いました。使わなくなったので売りたいのですが、いくらになりますか?」
事情を説明し、査定に入ってもらおうと思ったんです。
チェックシートみたいなものを用意して、ひとつひとつ「せかたび号」を見ていくのかと思っていたら、彼の口から出てきた言葉は・・・
「いくら欲しいの?」
え、えっーー!?そんなんなん?
いくら欲しいって言われても、多りゃ多い方がいいなぁ〜
でも、答えないわけにもいかないので電卓を用意して、ダメもと買った「17,000Ekk」の50%、8,500Ekk(約80,750円)を叩きました。
その値段を別の男性へ伝える彼。すぐに戻ってきた言葉は、今欲しいんだったら5,000Ekk(47,500円)でした。
(おっおぉー 希望値に近い!)
もう一度、ダメもと6,000Ekkで粘ってみましたが「その値段は無理」との返答。でも自分たちにとっては上出来!なのでOKを出しました。
ユーロ払いですぐに金庫から320ユーロを取り出す彼。名義変更の用紙を取り出し、サインして終了です。
(これで終わり?名義変更、ちゃんとしてくれるの?)
心配なので尋ねてみたら、「エストニアは簡単なんだよ」と実にあっさりとしたものでした。
1年3ヶ月ぶりにやってきた中古車店に滞在していた時間、およそ15分。
通算31,000キロを走った「せかたび号」の売却は、ボクらが抱いていた不安をよそに、320ユーロと大満足の金額を残して呆気なく終了しました。それにしても査定も点検もなく、見た目だけの値段?そんな感じがしましたが、動けばOKということなんでしょうか。。。
(あぁーお別れやなぁ〜)
車の運転は決して得意ではありませんが、慣れないマニュアル操作もすっかり慣れてきた「せかたび号」。修理を繰り返すたびに親しみが湧いてきて、手放すのは惜しいくらいなんですが、旅をつづけるのでそうも言っていられません。
チェコでの窓ガラス破損被害のあとは、駐車場に停めていても不安が頭をよぎっていた毎日。肩の荷が下りた気もあります。そして、はじめて走る街の走行は心配も尽きませんでしたが、事故もなく来れたことは素直に喜びたいです。
「たぶん、また売れるよ」
「せかたび号」は手続き完了後、点検をしてすぐに店頭に並ぶそうです。また次の運転者にも気に入って使ってもらえる!そう信じています。
◆第4ステージ走行データ
フランス、スイス、リヒテンシュタイン、ドイツ、チェコ、オーストリア、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア/42日間、6,431キロ
使用ガソリン量/456.63リットル
燃費14.1キロ/1リットル
ガソリン費用計/約75,692円
きょうさん♂
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2006年09月20日 |
●ラトビアの観光めぐり
リトアニアからラトビアに入国したのは、バルト海側の国境でした。
なぜ、この国境を選んだかというと、きょうさんの好きな灯台めぐりをしたかったから。せかたび号で自由に行きたい場所へ行けるのはあとわずかです、、、
バルト海際なので海が見える道路かと思いきや、全く海は見えず、地図に記されている灯台も見つからなかったり、びっくりするほど小さかったり、現地の人に尋ねてもなかなか英語が通じなかったり、厳しい灯台めぐり。
そんな中、ようやく見事な灯台にたどり着いたときは、きょうさんも大喜び!個人のお家にあるような感じでしたが、手入れされた敷地の中で、りんごの木もあったりして、美しい灯台でした!
かなりの遠回りで首都のリガに向うことになったので、この分じゃ到底夕方には、到着できません。仕方なく、途中のタルシ[Talsi]という街で宿泊することに。観光客を見かけないタルシの街。インフォメーションセンターで紹介してもらったお宿は、とってもかわいい部屋!イギリスのB&Bを思い出しながら、ゆっくりできました。
比較的物価の安いラトビア。首都リガでは、朝食がついてひとり1,000円ほど(ドミトリー)で十分くつろげます!
世界遺産に指定されている旧市街を散策。アールヌーボー建築っていうはじめて聞いた名前の建物が多いらしい。すぐに歩いて回れるほどの小さな旧市街は、そんなかわいい建物でいっぱいでした。
リガの北東部には、シグルダ[Sigluda]、トライダ[Traida]の街があり、古いお城を見に行きました。
レンガがぎっしり並べられた建物や塔。東欧でよく見た石の建物とは違った雰囲気ですね。塔の上からは森に囲まれたお城を実感できます。
お城のそばに「歌の丘」って場所があると聞いたんですが、英語で言うと「Hill of Song」でしょうか。このラトビア語が分からない、、、でも「Hill」のことを「kalns」というのは分かったので、たどり着いた「Dainu kalns」。転がるように大きな彫刻がいっぱいでした。
お城以上にびっくりしたのは、お城近くにあった洞窟、[Gutmana cave]です。大きな洞窟なんですが、その洞窟全体に名前などの文字が削れらているんです。
あんな高いところまでどうやって削ったんだろう?と思いめぐらせていました。
バルト三国を北上してきましたが、いよいよせかたび号ともお別れのときが近づいてきました。。。間もなく、エストニアへ!
たかさん♀
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2006年09月16日 |
●リトアニアを旅しました
世界一周旅行43ヵ国目となるリトアニア。バルト三国のうちもっとも南にある国です(北に、ラトビア、エストニアとつづきます)。
ポーランドと違って、何となく運転がしやすようなきょうさん。フリーウェイが通っていて、道幅も広いからかなぁ〜
リトアニアの首都ビリニュス[Vilnius]は、世界遺産に指定されている街。街の中心地は道路工事が頻繁で、発展している雰囲気を感じます。
それほど広くない街中に、たくさん教会があるなぁーと思ったら、街には14もの教会があるんだそうです。
そんなビリニュスから西へ25kmほど離れたところに、トラカイ[Trakai]という街があります。湖に浮かぶ「トラカイ城」で有名なんです。ガルベス湖に浮かぶお城とは橋でつながっているので、もちろん渡れます。この日は天気がよく、青い空に湖とお城がとってもきれいでした。観光地の割りには人が少なく、のんびりゆったり時が流れているような場所でした。
フリーウェイを西へひた走り、こちらもリトアニアの世界遺産、クロニアンスピット[Curonian Spit]へ行きました。地図で見ると本土とつながっているように見えたんですが、そうではなくて、船で渡ります。
ほんの5分ほどせかたび号を船に載せて、クロニアンスピットのある対岸へ。イメージは、天橋立がずぅーっとつづいているような感じ。ロシア領との国境近くニダ[Nida]まで車を走らせました。海がとってもきれい。。。
サンセットを見ようと車を降りて走っていったんですが、間に合わず、、、でも、夕陽が沈んでしまった真っ赤な空を見ることができました!だぁーれも人がいなくて、まるで私たちだけのプライベートビーチみたい。。。とても静かで、ただ波だけが打ち寄せてくる音を聞いているだけで居心地がよかった。。。
地図で見ると小さな国と思ったんですけど、車で走ると広さを感じますね。意外と大きな国!そして、ヨーロッパほど観光化されていないところがまたよかったです〜
なんだか、田舎に戻ったような気分でした。
たかさん♀
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2006年09月15日 |
●アウシュヴィッツの事実
「働けば自由になる」
「労働は自由をもたらす」
アウシュヴィッツ第1収容所の正門には、そのような意味を表す「ARBEIT MACHT
FREI」の文字が掲げられています。囚人たちは、毎日この門をくぐり労働に出かけていました。収容所の増築作業、新しい収容所の設立、石炭採掘や軍事工場などの建設作業にかりだされていたのです。
「パンとスープだけ」という食糧不足に加え、過酷な労働や厳しい拷問は死亡率を高めました。収容所で見られる囚人たちの写真には、入所年月日と亡くなった年月日が記載されています。よく見ると、ほとんどの人がわずか3ヶ月ほどの期間。
収容所がソビエト軍に開放された当時のフィルムを見ることができます。囚人たちの身体はげっそりとやせ細っています。体重20キロ台というんですから、体の線から骨が浮き出てくるような細さです。
重労働と飢えで体が衰弱し、やがて死に至るまで、囚人たちは収容所で強制労働をさせられていたのです。
●
アウシュビッツ収容所。
第2次世界大戦時にヒトラー率いるナチス・ドイツが作った殺人工場です。死者の数について正確な数字は残されていませんが、収容所の所長ルドルフ・ヘスは、「少なくみても150万人」とのちに証言しました。犠牲者は、多くのポーランド人、捕虜になったソ連兵、宗教者、共産主義者、障害者、ロム(ジプシー)、同性愛者たちですが、85パーセントを占めていたのはユダヤ人でした。アウシュヴィッツは、ホロコースト(全部焼かれたという意味)とよばれるヨーロッパ・ユダヤ人虐殺の象徴です。
北はオスロ、南はアテネを含むヨーロッパ全域、1000〜1500キロ、中には2,400キロ離れたところから運ばれてきた人もいました。「東ヨーロッパに移住する」という言葉を信じて、密閉された貨物列車に乗り、何日もかけてアウシュヴィッツに連れて来られたのです。
すべての人が労働を課せられたのでしょうか?
そうではありません。
労働に適さないと判断された女性や子ども、老人、知的障害者、そしてユダヤ人のほとんどは収容されることもなくガス室へ連れて行かれたのです。その割合、およそ75パーセント。4人のうち3人はガス室行きだったのです。
線路脇で「あちらへ」と指し示している人の写真があります。ヨーロッパ各地から着いた列車に乗っていた人をその場で見分けている写真なのです。本来ならば人を助けるはずの医者がそのような判断をしていたのです。
ガス室は線路のすぐ先にありました。
働けないと判断された人々は「シャワーを浴びるため」と服を脱がされます。石鹸を持たされ、「服をかける場所に番号を書いておくと間違えないよ」など巧妙なセリフに安心させられシャワー室へ入ります。一度に500人、多いときにはおよそ2,000人が入った部屋。シャワーから出てきたのは、温かいお湯でもなく、水でもなく、チクロンBという窒息ガスでした。中にいた人は15分から20分で窒息死したといいます。
死体から切った髪の毛で生地やマットレスが作られ、抜いた金歯は金の延べ棒に変わって市場に流れて行きました。残された死体は焼却炉へ。一度に2、3体を焼くのですが、それでも焼き切れないほどの数。野原で死体を焼いている衝撃的な写真もありましたし、フィルムでは間に合わなかった死体が山積みになった映像もありました。
人間の灰は、肥料として使われたり、近くの川や池に捨てられました。ほんの一部だけ収集できた灰が容器に入れられて保存されています。
没収された荷物類は、こと細かく分類されたそうです。多くの人は「移住する」と思っているのですから、生活道具一式や全財産を持ってアウシュヴィッツにやってきていました。金、銀、財宝類は市場へ。活用できないポットや食器類、スーツケースや靴、靴磨きのブラシやクリームが展示されています。靴なんて(何足あるんだろう?)って思うほどの驚く量。それらは、ほんの一部だそうです。
●
アウシュヴィッツで、このような恐ろしい出来事が日常茶飯事に行われていたと言います。システム化されたように、まさに殺人工場でした。
そして、それらを行っていたのは人間です。
歴史を繰り返さないために・・・。自分たちは、アウシュヴィッツから何を学ぶことができるのでしょうか?
●アウシュヴィッツの教え へつづく
きょうさん♂
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2006年09月14日 |
●アウシュヴィッツの教え
アウシュヴィッツについて、本やガイドブック、インターネットで概要はつかんでいたものの、実際に現場にやってきて目の当たりにすると、この出来事の規模の大きさに驚きます。
ドイツ軍敗戦までの4年間で殺害された人の数、約150万人。神戸市の人口が150万人ほどだったので、神戸の人がみんないなくなってしまう数です。
到底リーダーであるヒトラーひとりではできなかったこと。そもそも、ヒトラーはベルリンにいて、一度もアウシュヴィッツに来たことはないそうです。つまり、ヒトラーの周りにいる人、ヒトラーの演説を聞いた人が、ヒトラーの考えに共感して、実行できていたことになります。
「ユダヤ人を絶滅しよう」。
反ユダヤ主義の歴史については、このときに限らず、ロシアやアメリカでも起こったことらしいのでもっと歴史を学ばなければなりません。ただヒトラーが政権を握っていたころは、反ユダヤ主義が「公式な政策」のひとつになっていたというんですから驚きです。
収容所の監督権を持っていた秘密国家警察ゲシュタポ、収容所初代所長のルドルフ・ヘスや武装親衛隊を率いていたヒムラーなど。また囚人が囚人を管理できる仕組みになっていたというんですから、ユダヤ人虐殺に至った経緯はヒトラー個人の問題ではなく、「ユダヤ人は害虫である」といった人間が持つ「差別意識」のようなものから芽生えてきたように感じるのです。
さすがに今の世の中、「人を絶滅しよう」なんて風潮はありませんが、人を差別するのではなく、人と区別して、自分の至らぬところを知り、真似たい部分を吸収する、そんな他人(ひと)と共存できる人間でありたいと思います。
なんて言うものの、自分がその時代にいて「言うことを聞かなければ殺す」って言われていたらどうしたでしょう?「ユダヤ人を殺さないとお前を殺す!家族を殺す!」って銃を突きつけられたらどうしていたでしょうか? 死ぬのは嫌ですから、もしかすると言う通りに殺すような気がします。。。
頭では(良くないことだ)って分かっていても、その状況によって自分で理由をつけたり、意見を変えたり、決断できるんですから、人間って、よく分からない生き物なのかもしれません。
殺人工場だったアウシュヴィッツに植えられていたポプラの樹。当時の収容所の様子を描いた絵には建物1階分の高さなんですが、60年経った今では建物2階をはるかに超える高さに伸びていました。「殺す」ことが当たり前の場所で「育てる」気持ちも同じように持っていたことになります。
生地が薄い囚人服は寒さから身を守ることができず、コンクリートの上に置かれたわらの上で囚人たちは寝ていました。冬のポーランドはマイナス20度になるそうで、いつ凍え死ぬか分からない環境。部屋の片隅には「ひと晩で死んでもらっては困る」と暖炉が置かれています。
初代所長ルドルフ・ヘスの死刑が執行された絞首台を見られますが、その近く、ほんの100メートルほど先にヘスの家がありました。ヘスは奥さんと5人の子どもと一緒にそこで暮らしていたのです。家では夫であり父親の顔を持つ一方、アウシュヴィッツに来ては女性や子どもを含む人を簡単に殺していました。ヘスだけではありません。アウシュヴィッツを管理する多くの人はこの近くで家族と共に暮らしていたのです。いったいどんな気持ちで家族と向き合っていたのでしょうか。
そんな人間が持つ矛盾の部分にも気づきます。
逆に、こんなことも感じました。
ユダヤ人が持ってきたものを奪う理由を「ユダヤ人に奪われたものを奪い返す」と正当化し、180度違った理由をつけることで納得することができたり、ドイツ第三帝国が掲げた「危険な存在を排除する」というような大義名分があれば、どんなことでも忠実に実行することができる。
つまり、「ビジョンや目標がはっきりとしていれば、人間は困難なことでも実行実現することができる」ということ。男前でもなかったヒトラーがカリスマ性を示すことができたのは、きっとヒトラーの発するビジョンが市民に伝わったからでしょう。人を絶滅させるような恐ろしいことではなく、世のため人のためになるビジョンを持って困難なことにも励んでいきたいです。
アウシュヴィッツに残された勇気ある話。
ドイツ軍占領下のデンマークでは、デンマーク人が協力して8,000人のユダヤ人を小さな船で中立国スウェーデンに脱出させたといいます。
リトアニアに駐在していた日本人外交官、杉原千畝(ちうね)さんは、ポーランドから逃げてきた6,000〜8,000人のユダヤ人に対して、本国外務省の命令に逆らいつつも日本通過のビザを発行して命を救ったといいます。
囚人が収容所内で生命の危険を感じながら撮った写真が見られます。それは歯磨き粉のチューブにネガを詰めて収容所外へ送った7枚の写真の一部だそうです。
ほかにも名簿や資料などを収容所外部へ送るなどの囚人たちの抵抗運動や、収容所から開放された人の中にいた画家のおかげで、当時の収容所内の様子が絵で見ることができるアウシュヴィッツ。
どれも人の勇気を感じます。
●
日本は、当時のドイツとイタリアと「日独伊三国同盟」を結んでいました。アメリカ、ソビエト、イギリス、フランスの連合軍に敗れてしまったのですが、もしドイツが勝っていたら・・・
アウシュヴィッツ殺人工場は続いていたのでは?
そんなことを感じつつも、自分で自分の人生を決めることができる今の時代。
死にたくない、もっと生きたい!だからこそ毎日を大切に、やれることをしていきたいです。
きょうさん♂
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2006年09月13日 |
●収容所で思う戦争と人間
ポーランドの首都ワルシャワ[Warszawa]から列車で2時間半、そのクラクフ[Krakow]の街から西へ54キロ離れたところにオシフィエンチム[Oswiecim]という街があります。ドイツ名でアウシュヴィッツ[Auschwitz]と呼ばれる強制収容所があったんです。
ここは、昔から行ってみたい想いがありました。
学生時代にアウシュヴィッツのことを知り、(そんなひどい強制収容所があるんだ・・・)と関心を持っていました。
(実際に自分がその場所にいるとどんな気持ちになるんだろうか?)そんなことを考えていたんです。
戦争の傷跡を残している国は、たくさんあります。しかし、爆弾などを使わずに、人間が、人間の手で強制的に殺害していた場所。それも150万人以上という想像しにくいほどの数を殺し続けていた場所、アウシュヴィッツ。
実際に訪れると、本で読むより、話を聞くより、やはり言葉では書き表しにくい感情がたくさん出てきました。
人間って、とても愚か。そして傲慢で、人間のおごりを利用したシステムのような気がします。また人間って、とても不思議なものなんだ、、、そんな感情も出てきました。
誰が決めたか分からない人間の優劣。
ナチス・ドイツのリーダーであるヒットラーは、アーリヤ人(ゲルマン人)の優秀性を維持するため、「ユダヤ人を排斥する」というイデオロギーにもとづいていました。
ヒットラーが筆頭ではあったものの、その考えを支えていたのはドイツの一般市民です。また、ユダヤ人狩りは、ドイツ国内だけではなく、ノルウェーや、オランダ、フランス、チェコなどその他大勢のヨーロッパの国々も協力していました。
ということは、ヨーロッパの人々の心には、やはり人間への優劣があり、ユダヤ人への偏見があったということが感じられます。
確かに私も旅をしていて、「この街にはジプシーがいる」と聞くと、(スリに気をつけよう)と思います。いつの間にか「ジプシーは、人のものを盗る」というイメージを持っているように感じます。
このように、いつの間にかできあがるのか分からない人種へのイメージというものが、人間は持っているように思います。
今の日本国民の、北朝鮮へのイメージは、どうでしょうか?
北朝鮮へ拉致された多くの人が救出されたり、捜索されたりしているということで、新聞などのマスコミで取り上げられています。それによって、北朝鮮へのイメージも日本人にとってまた変わった人もいるのではないでしょうか。
「ユダヤ人だから、殺しても構わない」。
いろんな理由をつけ、ユダヤ人虐殺を正当化できた戦争。
もうひとつ私をびっくりさせたのは、囚人が囚人を管理するシステムです。アウシュヴィッツには、平均13,000人〜16,000人の囚人がいたといいます。たくさんいる囚人。その中でも、差別があり、囚人の身分の差があります。
囚人服はみな同じなんですが、胸元には囚人番号とともにマークをつけています。例えば、赤三角は政治犯、桃三角は同性愛者、紫三角はジプシーなど。ひと目で、囚人を識別できるようにしていました。
身分の高い囚人は、ご飯を作る様な比較的体が楽な仕事をしていたようです。建設といった過酷な重労働は、死と隣り合わせです。仕事をしている囚人たちの見張りをしていたのも囚人、囚人が囚人を管理するというシステム。
そんなシステムを作ると、人間はルールを守ることが当たり前になり、ルールに疑問を感じる人も、反対の声をあげる人もいなくなってしまうようです。
残虐なアウシュヴィッツ。当時、ヒトラーが唱えた、「危険な存在を排除する政策」は、アウシュヴィッツに関わる人にとっては、疑問がなかったんだといえます。
しかし、戦後になり、世論がこのアウシュヴィッツの事実を知ると、捕まえられた人は、「ヒトラーに騙された」と言ったそうです。簡単に責任転嫁ができる戦争。
戦争だったから、、、、
私には、戦争体験がありません。だから、戦争体験のある人がこのアウシュヴィッツを訪れたら、また感じ方が違うと思います。そして訪れたユダヤ人たちは、どのように感じるのでしょうか。
今回、アウシュヴィッツでガイドをされている中谷剛さんのおかげで、より深く多方面からアウシュヴィッツのことを知ることができました。本で読んでいたこととは、また違った角度から感じることができました。
この負の世界遺産は、これからの若い人々に受け継いでいかないといけないものです。そして、その歴史を私たちも背負い、同じことを繰り返さないようにしないといけません。
そして、私たちはこのアウシュヴィッツに訪れることができたことによって、こうしてホームページで紹介して、アウシュヴィッツの出来事を伝えることが使命だと感じました。
イスラエルの戦争。
このアウシュヴィッツを見て、ユダヤ人が建国したイスラエルという国の戦争に、すごく心が痛い気持ちなりました。
ヒットラーは、第2次世界大戦まで権力とトップの座を手に入れたかもしれない。でもそれを支えた人々は、一体何を手に入れたのでしょうか?
戦争とは、ひとりで出来るものではありません。
戦争をしている国、人々は一体何を手に入れることができるのでしょうか?
そんな疑問や人間の不思議さに驚くばかりで、私にとっても何も答えがでてきません。
ただこうして、幸いにも世界を周ることができているので、戦争の傷跡や世界の現実を少しでも多くの人に伝えることをしていくことが、私たち夫婦に今できることなんだろうと思います。
たかさん♀
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2006年09月12日 |
●日本人ガイド中谷剛さん
中谷さんがアウシュヴィッツ博物館の専属ガイドをされていることは、二人とも世界一周旅行に出発する前から知っていました。ホームページで、そしてガイドブック「地球の歩き方」にもご紹介されています。
「アウシュヴィッツへ行ったら聴かせてほしい!」。
そう強く思ったきっかけは、今年の4月エジプトにいたころ。添乗員の大先輩monaさんから「中谷さんにご案内してもらうといいよ」と言ってもらった言葉でした。
ガイドさんのおかげで知識が深まることは、添乗員のころに感じていましたし、カイロの『エジプト考古学博物館』をmonaさん通じてあかねさんにご案内してもらったときにはつくづくそう思いました。
(せっかく行くんだから、知識を深めたい。。。)
ドイツのロマンチック街道を移動しているころに、中谷さんへメールを送らせてもらい、お忙しい中、すぐのお返事をいただいて、この日が実現したんです。
9月12日にアウシュヴィッツでガイドを聴かせてもらったんですが、当初は11日で予約をさせてもらっていたんです。それがせかたび号修理の影響でオーストリアのウィーンを出るのが遅くなり、予約時間に間に合わないという結果になってしまいました、、、
「日程変更」の連絡をしなければ・・・
そう思いながらも、オーストリアのユーロも、途中通ったチェコのコルナも、そしてポーランドのお金もなく連絡できず、、、やっとポーランドで換金できて電話をかけたときには、すでにガイド開始の時間。留守番電話へのメッセージに吹き込むしかできませんでした。
遅れること2時間半、アウシュヴィッツに到着。
中谷さんのその日のご案内が終わるころにお詫びをかねてお伺いすると・・・
「大丈夫ですよ。気にしないでくださいね!」
ガイドが終わった直後だというのに、疲れたそぶりを見せないどころか笑顔で迎えてくれるんです。ほんと恐縮でした。。。
同じ神戸出身の中谷さんは、ホームページの写真がやや古く?感じたからなのか、実際はさわやか体育会系!メールで人柄のよさを感じたとおり、とっても近寄りやすい人でした。旅のことも気にかけていただき大感謝です。
そしてご案内が聴ける日。
集まった日本人は学生さんを含めた9人。全員が30歳代以下。ガイド料金197ズウォティ(約7,500円)を9人でシェアして窓口へ支払い、中谷さんのガイドがはじまりました。
前半は「ARBEIT MACHT FREI」の正門があるアウシュヴィッツ第1収容所。後半は7倍の広さがある第2収容所ビルケナウへ、合計約3時間。
アウシュヴィッツで何が起こったのかをはじめ、そのシステムについて詳しく聴かせていただきました。
ガイドブックなどで事前に知っていたこと以上の話が聞けたことも印象的でしたが、もっと心に残ったことは、アウシュヴィッツの出来事は決して他人事ではないということ。
人間の心理に関することや、ヒトラー政権が生まれた経緯は日本と同じ仕組みなので、日本でも十分起こりうるんですね。
アウシュヴィッツには、ドイツやポーランドはもちろん、世界中から人が訪れています。絞首刑台のそばで、迫るソビエト軍に隠すため破壊したガス室のそばで、医者が人を選別した線路のそばで、ガイドさんの案内はつづいていました。
「歴史を繰り返さないために、歴史を学ぶことが大切」。
国籍を問わず、自分の国をよくするために、世界を平和にするために、アウシュヴィッツから何かを学びに来ているように見えます。
アウシュヴィッツに来る前から、(アウシュヴィッツを歩いたら、何を感じるんだろうか?)と気になっていました。
中谷さんのガイドを聴いて、ひとりの人間が感じることや思うことはそれぞれ違っていても、各自ができることはたくさんあるはず・・・そんなことを感じています。
中谷さんが言っていました。
「力(チカラ)を入れてないときのほうが伝わることもあるんですね」。
逆に気合いを入れすぎて伝わらないときもあるとか。人が何によって感じるかは、人それぞれに違うんですよね。それだけに、聴いたことだけでなく、自分が何を感じるか?そんな感情に耳を澄ませることも大切なんだと思います。
「僕はこう思う」、「私はこう思う」。
自分の意見が自由に言える今の世の中。これだけでも幸せなことなのかもしれません。
「問題意識を持ち、問題解決に努められるようになりたい」。
中谷さんに会えたおかげでそんなことを思っています。どうもありがとうございました!
●中谷剛さんの連絡先などホームページはこちらです。
せかたび夫婦
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2006年09月11日 |
●オーストリア最高地へ旅
「オーストリアに来たら、必ず連絡してね!」。
今年5月にトルコのカッパドキアでお会いしたアニータの言葉に甘えて、ウィーンのお家に遊びに行きました!
病院へ看護婦さんなどを派遣する人材派遣の会社に勤めているアニータとは話が合って、トルコで「オーストリアの自然を見せに連れて行ってあげる」と言ってもらっていたんです。
アニータは世界中にお友達がいて、この日は、インドから来ているマヘシュと、台湾から来ているシャロンも一緒。アニータとボクらの5人でレンタカーを借りて、オーストリアの南部へ遊びに行くことになりました。
本当はせかたび号の登場予定だったんですが、冷却水の入替修理が必要となったこともあってお休み。まぁアニータは平均時速140キロで走るので、せかたび号じゃなくてよかったんです。せかたび号じゃ、何時間かかることやら・・・・。
自然好きのアニータが連れて行ってくれたのは、「トップ・オブ・オーストリア」と呼ばれるオーストリア南部のグロスグロックナー[Grossgrockner]。
26ユーロの通行料を払って走る山岳道路は、大自然満喫道路でした。写真好きを自称するボクですが、アニータはもちろん、マヘシュもシャロンも大の写真好き!車を停めてはカシャカシャと、ボク以上に撮っていました。
まぁそれだけ美しい景色の連続なんですが、“写真好き”と行動を共にして、“写真好き”を待つ立場も体験できました。いつものたかさんに感謝です!
「トップ・オブ・オーストリア」は、オーストリアはじめヨーロッパ諸国からのライダーたちでいっぱい。黒い革ジャンに身を包んだライダーの集まる姿はかっこいいですね!山岳道路をさっそうと走る気分もまた格別なんだと思います。
山を背景にした教会へ立ち寄ったり、透き通る湖でカフェしたり、アニータの実家で親子3世代と対面したり、オーストリアのイメージとは違った楽しみ方でした。
オーストリアといえば「音楽」のイメージだったんです。でもアルプス山脈が通る国なので、自然がないわけがないんですよね。また違った角度からオーストリアを感じられた一日でした。
それにしても、この日のオーストリアにある9つの地方のうち、6つの地方を通ったというほど縦断、横断の旅。朝6時半から深夜0時までの走らせたレンタカーの走行距離、なんと1,000キロ!瞬間最高速度時速180キロを含め、ひとりで運転し続けてくれたアニータのおかげです。インド、台湾、そして日本。多国籍の人を受け入れているアニータの魅力を感じた一日でした!
きょうさん♂
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2006年09月09日 |
●ウィーン風の過ごし方?
「ウィーンはどこへ行きたいの?」
「オペラとシェーンブルン宮殿」。
そう答えると、アニータがウィーンでオススメの場所を教えてくれました。
ひとつは、モーツァルトのサインが壁に書かれてあるレストラン。もうひとつは、ピアノの生演奏が聴けるカフェ。
どちらも有名な場所なのかもしれないんですが、なんせ音楽情報に疎い自分たちなので、こういう機会こそ音楽に触れよう!ということで、アニータのオススメ店めぐりをすることにしました。
●
モーツァルトの直筆サインが壁に書かれたレストラン『Griechenbeisl』。「高級レストラン?」と思っていたら、お店の人は親切だからサインを見るだけでもレストランに入れてくれるとのこと。
お店へ着くと、アニータの言葉どおり、「そこの左の部屋を左へ曲がった部屋ですよ」と教えてくれました。中に入ると、6畳くらいの大きさの部屋があって、天井が低いので狭く感じます。テーブルがきつきつに置いてあって、壁じゅうにサインが書かれているんです。
(あら?モーツァルトのサインだけかと思ったら、そうじゃないんだ・・・)
この中からモーツァルトをどうやって探そうと思っていたら、ラッキーなことに日本の雑誌の切抜きが貼ってあって答えを書いてくれていました。ちょうど扉側の正面。よく見ると、モーツァルトらしき「Wolfgang
Amadeus Mozart」の文字?
こりゃ、サインを知っていないと見つけられませんね〜 なにわともわれ、これがモーツァルトのサインなんだ!とプチ感動を覚えて部屋を出ようとしたら「山本耕史」のサインを発見!それも「2006年8月6日」。あら?つい一ヶ月ほど前なんだぁ〜 意外な発見でした!
『Griechenbeisl』http://www.griechenbeisl.at
●
ウィーンの街を歩き回って、休憩をかねてピアノ生演奏を聴きに立ち寄ったのが『CAFE
CENTRAL』。
こちらはアーチ型の高い天井がおしゃれなカフェ。ウィーンでも歴史のあるカフェらしく、伝説らしき物語もあるようです。
席に着いた時点ではピアニストは休憩だったようですが、すぐに戻ってきて、演奏をはじめてくれました。さりげないBGMのような感じの演奏。題目もなければ、楽譜もなく、ピアニストのそのときの気分で演奏をしてくれているような感じでした。
曲が終わる度に、フロア全体を見渡すピアニスト。(こういうのを感性で弾くっていうんだろうなぁ〜)そんなことを感じました。
このカフェには、壁にはシェーンブルン宮殿でおなじみのシシィことエリザベートと皇帝フランツ1世の肖像画もあり、優雅な雰囲気を感じさせてくれる場所でもありました。
ピアノの生演奏は午後4時から9時までの5時間。日曜日は6時閉店で、正午から夕方5時までの5時間、生演奏を聴かせてくれました。
『CAFE CENTRAL』http://www.palaisevents.at
きょうさん♂
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2006年09月09日 |
●シェーンブルン宮殿散策
ハプスブルグ家の夏の離宮「シェーンブルン宮殿」。ウィーンに観光に来た人のほとんどが訪ねるこの場所は、世界遺産にも指定されています。
シェーンブルン宮殿は、入場料に含まれているオーディオガイドを聴きながら観て周れます。もちろん日本語あり!ゆっくりと分かりやすくそれぞれの部屋の案内をしてくれるので、ありがたいですね。
女帝マリア・テレジアや少女期のマリーアントワネットもここに住んでいたんです。
マリア・テレジアは、11人の子どもを産み、育て、国を守り、大きくした人であります。なので、オーストリアでは、とても敬愛されていているんです。
女優の黒木瞳さんのように、子育てと仕事の両立ができる人は、現在でも憧れの人として人気がありますよね!(私もそういう女性になりたい〜)
マリア・テレジアやマリーアントワネットなど11人の子どもたちの肖像画が飾ってあるんです。みんな似ているぅ〜
このハプスブルグ家でマリア・テレジアと同じくらい人気があるのが、1830年〜1916年のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后であるエリザベートです。
シシィと呼ばれていてたそうで、とてもきれいな女性!本人もその美しさを自覚していたそうで、美貌や体型を維持するために、ミルクのお風呂に入っていたり、トレーニングやスポーツをかかさなかったそうです。床にまで届くシシィの長い髪の手入れは数時間かかっていたそうです。
世界各地に残されてある昔の宮殿。今までいろんな宮殿を見てきましたが、ここシェーンブルン宮殿はひとつひとつの部屋が意外と小さくて、びっくりしました。大広間といった人を迎え入れる部屋はさすがに広さもあるんですが、家族の食卓や、個人の部屋は小さいんです。
なので、豪華なイメージよりは、宮殿にしては質素でした。シシィの旦那さんである皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ここで生まれて86歳で亡くなるまでここで過ごしたのですが、ベッドなんて実にシンプル。(これって、ドミトリー?)って思ってしまうような簡素なもの。
ヨーゼフは、「疲労困ぱいするまで働くべし」と自ら語っているくらいよく働く人で、調度品などにはあまり関心を示していなかったことが各部屋からも伺えます。
もうひとつの見所である庭園は広く、オーストリアの国旗をあしらった「赤白赤」の花などきちんと手入れされていて素晴らしかったです。観光馬車まで走っているくらいですから、その雰囲気を想像してもらえるかもしれません。
宮殿そのものも素晴らしかったけれども、マリア・テレジアとシシィとそれぞれの女性の一生を垣間見ることができたり、ヨーゼフを含めたハプスブルグ家の様子を少し感じられたシェーンブルン宮殿の観光でした。
たかさん♀
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2006年09月08日 |
●国立オペラ劇場での鑑賞
「音楽の都」ウィーンの街角では、バイオリンやアコーディオンをはじめ、いろんな楽器での演奏を聞くことができます。そしていろんなコンサートも開かれています。
国立オペラ劇場では、なんと年間300日以上も講演しているらしい。私たちは知り合った台湾人のシャロンと三人でオペラをはじめて見に行ってきました。この日はワーグナーのオペラで夜の6時に開演。
劇場の中は箱型のようになっていて、見た目は狭く感じるんですが、映画館のように一面に座席があるだけではなく、正面はもちろん、左右の壁側にも座席が設けられています。なんと1,000人が観賞できるらしい。
座席は、場所によって金額が異なります。一般に売り出されているのは40ユーロから60ユーロくらい。一番安い席でいいと思っていたら、なんと開演数時間前からスタンディングチケット(立見席)が売り出される情報を得たので、初観覧は立見席。3.5ユーロだから、日本円で500円ちょっとです!
前後に手すりが置かれているだけの場所なんですが、正面のVIPシートの下(1階)なので意外とよく見えるんです。
幕が下りている舞台のすぐ下には、オーケストラがスタンバイしています。大喝采に包まれて指揮者が入場。静かなトーンの音楽をしばらく聞かせてくれていたと思ったら、幕が上がります。舞台には、ぎっしりの役者さん?がスタンバイしていて、動いたり、声を出したり、躍動的なオペラでした。
ドイツ語なんですが、立見席には小さなモニターが用意されていて、そこでセリフを翻訳した英語を読むことができます。だからなぁんとなく恋のストリーは理解できました!でも、劇も見たいし、英語訳も知りたいので、顔を動かしっぱなしで、結構忙しかったです〜(笑)。
2時間ほどのオペラだと思っていたら、なんと第3幕終了が夜の10時半位だとか。立見席で足が疲れてしまったこともあり、第2幕で中座しちゃいました、、、
音楽のことをよく知らない私たちですが、舞台の下で演奏している音楽家たちと、舞台で劇をしている人たちとで作り上げているオペラ劇場は、素人の私ながら、楽しい時間でした。
きっと、ここに出演できる方々は、最高技術を持った人たちばかりなんでしょうね。見にきている観客の方たちも、ドレスアップをしていたり、品のいい人ばかりのようにも見えました。
ヨーロッパ3大オペラ劇場のひとつに入る、ウィーンの国立オペラ座。観賞後は、なんだか私たちもお腹の底から声を出しなくなるような〜 心豊かになれました。
音楽もいいですね〜
たかさん♀
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2006年09月07日 |
●ウィーンザッハートルテ
ウィーンへ行ったら食べてみたかったのが、ザッハートルテ。今では世界中のお菓子屋さんで食べられるザッハートルテ。その本場と聞いて、“甘いもの好き”としては味わっておきたい。
「ザッハートルテのオリジナルはどこか?」
訴訟騒ぎまで発展したことがあるザッハートルテ。ますます興味がわいてきます。。。
時は、1832年のウィーン。
王様のためにお菓子を作ることになった見習い2年16歳のフランツ・ザッハー君が選んだのはチョコレートケーキ。焼き上げたトルテは王様を大そう喜ばせたそうで、これがザッハートルテの誕生となります。
およそ40年後、フランツの次男エドワルドが「ザッハーホテル」を開き、父親が創作したザッハートルテをホテルの名物にします。
しかし、次男エドワルドが修行していた菓子店「デーメル」では、エドワルドが父親から学んだトルテを伝えていたこともあるということで、「デーメル」もオリジナルを売り物にトルテを作っていました。
さて両者の決着は・・・?
結局、「ザッハーホテル」が『オリジナル・ザッハートルテ』、「デーメル」が『エドワルド・ザッハートルテ』を名乗る形で落ち着いたそうです。
そんな話もザッハートルテに味をそえてくれます!
オペラ座の北にある「ザッハーホテル」に足を運んでみました。深紅の色合いが高級感をかもし出してくれるザッハーホテル。すぐ横にはカフェがあり、どうやらそこでザッハートルテを食べられるもよう。。。
注文後、しばらく待っているとやってきました!ザッハートルテ。チョコレートに覆われたケーキには、チョコの印章ものっかっており、おしゃれー
さぁ先端へフォークを落とし、添えてある生クリームとともに口の中へ〜 はぁむむ〜!
(おぉ〜 これがザッハートルテぇー)
「あまぁーい!!」
砂糖を入れていないコーヒーなのに、どんどん飲めます。それほど甘い!
でも休むことなく、生クリームと共につぎつぎと口の中へ消えていくザッハートルテ。アンズのマーマレードが甘みを増します!!
「甘い、甘い」といいながら、わずか5分で終了のザッハートルテタイム。(もっと味わえよォー)なんて思いながら周りを見渡すと・・・、
どのテーブルにも運ばれてくるザッハートルテ、ザッハートルテ! 日本人だけではありません。ヨーロッパ人もこの味を楽しみにしていたようです!
「ザッハーホテル」のザッハートルテを食べ終わったら「デーメル」へ行くつもりでしたが、さすがに1個で十分。いや、たかさんとふたりで1個だから半分で十分、、、
ホントに甘かった、ザッハートルテ。次の機会は、ぜひ「デーメル」へ行ってみよう!
きょうさん♂
『オリジナル・ザッハートルテ』/1個4.8ユーロ(約720円)※コーヒー別
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2006年09月04日 |
●オーストリアの世界遺産
チェコではせかたび号の窓ガラスを割られる災難に遭いましたが、世界遺産の街を満喫。南の国境を越えてオーストリアに入国しました。
向った先は、ザルツブルグ[Sarzburg]。ザルツブルグは、あの有名なモーツァルトの生まれた街でもあり、世界遺産の街。訪れる観光客でとっても賑わっています。
オーストリアに「音楽」のイメージがあるのは、モーツァルトをはじめ偉大な音楽家が何人も生まれているから。でも私たちには残念ながら、音楽の知識はほとんどありません、、、私なんて、これまで一度もCDやレコードを買ったことがないくらい(!)音楽にはうといんです・・・。
イスラエルで歌った「♪せかたびの唄」は、何人もの方のご協力があったから実現できたものの、あの唄を聞いてもらったら分かると思いますが、ひどい音程で・・・まるでお経です。
とまぁ、音楽に関しても無知なんですが、オーストリアに来たんだから、ちょっとでも音楽に触れてみたい。
ザルツブルグにあるモーツァルトの像のそばでは、クラリネットやフルートなどで演奏している人がいるんですよ〜 ギターじゃなくて、クラリネットやフルートってところが、オーストリアっぽい!
まずは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台にもなった噴水の広場へ行ったり、モーツァルトが生まれたお家の前へ行ったり、ザルツブルグの街歩き。世界遺産の街を一望できる展望台へ行ったんですが、曇り空のためか、あまり人がいなかったですね。
チェコとはまた違う華やかな国オーストリア。そんな印象です。
そのあと、ハルシュタット[Hallstatt]という小さな街まで車を走らせました。ハルシュタットの街は、よく絵葉書になっていて、湖と森、教会をモチーフにした素敵な街なんです。ここも世界遺産。
9世紀ころには、鉄器文明が栄えていたというんですからここも歴史がある街なんですね。塩の洞窟が観光スポットとして有名ですが、ほかには特に目立ったものはなく、この湖のほとりでのんびりゆっくりくつろぐのがハルシュタットでの過ごし方のような気がします。
つづいての世界遺産の街はグラーツ[Graz]です。
雰囲気はザルツブルグに似ていますが、ザルツブルグよりも大きな街です。
天気に恵まれて、街のシンボル大きな時計台まで上りました。やっぱり天気がよくて、建物がより美しく見えると、(ヨーロッパだなぁ〜)という気分になりますね!
この時計台のある展望台では、本を読んでいたり、恋人同士で仲良く過ごしていたり、、、自分の時間を楽しんでいるようにみえました。
ザルツブルグ、ハルシュタット、グラーツと世界遺産の街を満喫したあとは、いよいよオーストリアの首都ウィーン[Wien=Vienna]へ向います。
「オーストリアに来たら絶対に遊びに来てね!」
そう言ってくれていたトルコであったオーストリア人のアニータとの再会です。
たかさん♀
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2006年09月03日 |
●ゼンメリンク鉄道の石橋
世界一周旅行のお供『なるほど世界知図帳』。
オーストリア全土の地図を眺めていると、グラーツ[Graz]からウィーン[Wien]への途中に、世界遺産「ゼンメリンク鉄道」と書かれています。
世界遺産好き、鉄道好きとしては見逃すわけには行きません。。。
(何が世界遺産なんだろう?)
スイスのユングフラウヨッホは、3,400mを越える場所まで鉄道が走っていました。アルプスに囲まれているオーストリアといっても、ここゼンメリンク[Semmering]でも、標高は1,000mに満たない。
ゼンメリンク鉄道は、山岳鉄道でよくある軌道ではなく、普通の軌道を用いて運行している鉄道だそうです。東アルプスの豊かな自然と調和するように配慮がなされた鉄道路線は、最古の山岳鉄道路線として世界遺産に登録されたそうです。
行った時間は午後5時を回っていたので、現地のインフォメーションセンターでは情報を得られませんでした。それでも、ゼンメリンクの駅員さんに見所をたずねて、行って戻ってこれる片道30分ほどの区間を往復することにしました。
昔は蒸気機関車が走っていたらしく、古い写真が駅構内にいくつも飾られています。こういう白黒の写真っていいですね〜 さすがに今では蒸気機関車ではありませんでしたが、きれいな車両の列車がやってきました。
手動で扉を開けると、車内はガラガラ・・・。
やってきた車掌さんから切符を買うと、往復ひとり4.2ユーロ(約630円)。(これで採算が取れるんだろうか?)なんて余計なことまで気にしてしまいます。
さぁ動き始めたゼンメリンク鉄道。
窓ガラスに額を近づけ、車窓に夢中になってみると、ゼンメリンク周辺の丘というか、森というか、のどかな高原風景に包まれて、列車が走っていきます。
遠い山の頂上には、ポツンとお城のような建物があったり、観光客でにぎわう世界遺産の街とは違った風景でした。
途中いくつも通る「石橋」。
もちろん、鉄道のために造られたこれらの石橋もとても風情があるものばかりでした。列車から眺めるのは難しいのですが・・・。
ゼンメリンク鉄道の車窓は「大感激!」ということはありませんでした。嵐山のトロッコ列車からの景観のほうがボクは好き。
でも鉄道区間の中ではもっとも標高が高いゼンメリンク駅。ここに立つ世界遺産の碑を見つめていると、アルプスの山を超える列車を走らせるのが、とても大変だったことが感じてきます。
きょうさん♂
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2006年09月02日 |
●狙われた!「せかたび号」
チェコの世界遺産の街チェスキークルムロフ[Cesky Krumlov]で、せかたび号がトラブルに遭ってしまいました(悲)、、、
それも今回は、宿の指定した駐車場での被害、、、
小さな宿だったので、駐車場が隣接しているわけではなく、少し離れた場所に停めていたんです。小さな空き地のような感じ。
朝きょうさんが、チェスキークルムロフの写真を撮りに行こうとして、せかたび号の確認へ立ち寄ったときに発覚しました!
今回の被害は、車の助手席側の窓ガラスを大きな石で割ったもの。どうやら車内を物色して金品を盗もうとしたようです。
泊まっていた宿の主とは英語が通じないんですが、現場を見てもらうと、大きなジェスチャーでかなり驚いたようす。。。すぐに警察へ連絡をしてくれまた。
およそ10分後、警察が到着。早速、現場検証です。意外と警察官は英語が通じたので、スムーズにことが運びました。チェスキークルムロフの警察署まで同行。ポリスレポートの作成です。
英語を話す通訳の人と4人で作業に追われていました。
ポリスレポートは、すべてチェコ語。 日本語も作ってくれるとのことで、翻訳して、私たちの元に届けてくれるそうです。なんて親切!!
私たちは、昨年(2005年)11月にもフランスのニース車内荒らしに遭いました。停めていた車が狙われたのは今回が2回目。
車の故障も含めていろんな経験を重ねてきたのか、二人とも意外と冷静で、手続きなどやるべき淡々と済ませていった感じです。でも精神的にいやですね・・・。こういう出来事は・・・
今回は、せかたび号内に窓ガラスが散乱したおかげで、掃除が大変!!もちろん、誰が手伝ってくれるわけでもなく、私たち二人で、宿の人にホウキとチリトリを借りて、せっせと掃除をしました。細かいガラスの破片がシートの隙間に入ってしまってあぁたいへんでしたぁ〜
窓を修理したいんでしたがこの日は土曜日。翌日曜日も修理できる場所がお休み、、、窓なしでは出発できないので、月曜日まで同じ宿に泊めてもらいました。それも無料で!親切だぁー
今回は、宿の指定駐車場での出来事。私たちの「せかたび号」とともに4台の車が停まっていました。私たちの車が一番端に泊まってあったから狙いやすかった(壊しやすかった)のか、古くてセキュリティがなさそうだったから狙いやすかったのか、それは分かりません。
でも、ナンバープレートがチェコではないので、観光客の車と分かってしまうのもひとつの理由かもしれません、、、
あぁ〜まいった、まいったぁ〜
クルマ屋さんで修理が完了し、旅が再開。そのときは、まさかウィーンで、またクルマ屋さんのお世話になるとは知らず・・・
たかさん♀
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2006年09月01日 |
●チェスキー クルムロフ
「チェコで行きたい街はどこですか?」
首都プラハの次にランクインするのは、チェスキークルムロフ[Cesky Krumlov]ではないでしょうか?
首都プラハ[Praha]へ行くよりも、南のオーストリアへの国境のほうが近い場所に位置するチェスキークルムロフは、1992年にユネスコ世界遺産に指定された美しい街。
首都プラハ、ホロショヴィッチェ[Holasovice]につづいて、ここチェスキークルムロフと、ボクらのチェコの旅はまさに世界遺産めぐりです。
ヴァルタヴァ川というぐねぐねした川に囲まれたチェスキークルムロフ。なので、川沿いの街並みが魅力に感じます。プラハもそう感じたんですが、川が流れる街はいいですね。ヨーロッパ独特の建築物を見ているだけでも旅情気分を感じるんですが、川沿いの街並みは、さらにそんな気分を助長させてくれます。
プラハとは比べ物にならないほどの小さい街ですが、チェスキークルムロフ城の塔が街の象徴として輝いています。
個人的に灯台好きなんですが、このチェスキークルムロフ城の塔は、なんとなく灯台っぽい感じもして、風情がありました。
石畳の街中は、時間帯によっては車での進入ができません。とはいっても小ぢんまりとした小さな街ですから、簡単に歩いてぐるりと回ることができます。
「地域博物館」の西側に公園のような憩いの場所があります。そこから塔を含めたチェスキークルムロフ城が一望でき、オレンジ色の屋根があたり一面に広がっている様子も見られますので、ぜひ撮影スポットに!
また「地域博物館」の東方面に歩いていきますと車どおりに出ます。角の駐車場の北側にバス停があるんですが、そのそばからもチェスキークルムロフの街が見えます。
一番のオススメは、チェスキークルムロフ城のプラーシュティ橋。赤い門側から歩いていき、第1の中庭、第2の中庭と呼ばれる場所を抜けて第4の中庭を過ぎると、プラーシュティ橋があります。フランスの世界遺産、ポンデュカールのミニ版って感じですが、その先第5の中庭の窓枠からのぞくチェスキークルムロフの街は素晴らしい。ヴァルタヴァ川、白の塔、聖ヴィート教会などチェスキークルムロフの街が見渡せます。午前は半逆光になりがちなので、午後から夕方にかけての光がいいと思います。
第5の中庭の先の「城の庭園」もお見事です。ちょっと坂道ですが、ぜひ足を運んでみてくださいね。
僕らはチェスキークルムロフ城には入城していませんが、このあたりの中庭や庭園は無料エリアですので、自由に歩くことができます。
天気がよければ川でカヌーやボートでのちょっとした急流すべりも楽しめるチェスキークルムロフ。かわいらしい街でした。
きょうさん♂
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