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世界を旅しています!
きょうさん、たかさん
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世界一周サイト
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2005年06月30日 |
●エストニア のりさんの家
エストニアの首都タリンから南へ2時間。パルノにある日本人経営者「のりさんの家」に3日間滞在しました。ロシアからエストニアに入国したとたん、雰囲気も人々の様子も街並みもガラッっと変わり、エストニアの明るさや人々の親切さにあっという間に魅かれていったんです。
もっぱら食事は自炊なんですが、食材がたくさんあり、まるでオーストラリアやアメリカを思わすようなスーパーマーケットの広さなんです!!野菜も豊富で、測り売りです。真っ赤なトマトの山積みがとっても印象的!その場で食べれそうなくらい熟しているんですよ。お米もあります!しかし、まだまだ日本の観光客が少ないこともあり、しょうゆなど日本の調味料はありません。
物価は日本よりもちろん安いです。でもアジアに比べると少し高い、、、それでもヨーロッパのほかの国に比べると安いので、旅支度の準備で物や食糧をたくさん買いました。
エストニア料理という特別なものはないらしいですが、田舎料理といわれるものがエストニア料理だそうで、日本人の私たちの口にも合います!
自炊では米を鍋で炊き、野菜が安いので、野菜炒めよく作りました。そして、じゃがいもが甘くてとってもおいしい。こふきいもも作りましたね!オーナーののりさんとオープン前のお手伝いに来ていたトオルさんときょうさん4人で食材を買い、料理をつくり・・・と日本食に近い味付けがとってもおいしかったです。
朝食は、ホテル代に含まれていて、パンやチーズ、ハム、コーンフレーク、ヨーグルト、りんご、などなど種類も豊富。エストニアのパンは少し固めなんですが、慣れてくると、この歯ごたえのあるパンがおいしいんですね〜 キッチンでは大きな窓からたくさんの日差しが入り、緑を見ながらの食事はより格別でした!!
日本は今ちょうど梅雨の時期だけど、北欧は一年でいまが一番いい季節!地元でもこの夏の数ヶ月だけのバケーション時期。
なのに、ヨーロッパに比べここエストニアは人が少なく、のんびり、とっても気持ちよく過ごせました。
「エストニアってどこ?」と聞かれるほど、日本人から見ると分かりにくい国ですが、北欧のフィンランドからも日帰りで来られる船で2時間ほどの場所。EU圏に入っているので面倒なパスポートチェックもなし!
バルト三国(エストニア、リトアニア、ラトヴィア)はこれからの国だと言えます!
旅好き夫婦のオススメの国とオススメのお宿です!
たかさん♀
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2005年06月29日 |
●せかたび号で第2ステージ
バルト三国のエストニアで中古車を購入!(パチパチパチー!!)
物価の安いエストニアで中古車を買い、そのまま北欧、イギリス、ヨーロッパと周り、続いてアフリカ大陸では運転は不安なので、ヨーロッパのどこかに、車を停めてアフリカ大陸へ移動し、また車に戻って、さらに東欧を周る考えだ。
車の購入は、ほんと大変だった!
中古車センターに行き、まずいい車に出会うまでが大変。古い車ばかりで、試運転をたくさんさせてもらう。ちなみに、雨オンナの私は、やっぱりその日も大雨(悲)。数時間後、何とか無事に車はマツダのセダンに決まったが、次は登録が大変だった。
住所登録や、保険の手続きは???
国を移動している旅人は、確かに現地住所登録が出来ない。エストニアでは、現地住所がないなら、購入した日から10日以内に出国しないといけない。その後の各国への入国も国ごと決まりごとがあるようでややこしい、、、もしかすると、入国できない場合もある。
また、保険も最長で一年しか加入できなくて、アフリカ大陸後の保険が手続きがエストニアまで戻っていかないといけない・・・う〜
そりゃそうだ。日本で車を購入するときも、同じだもんね。
服を買いに行くような感じで、中古車を買いに行った私たち夫婦。
今回は運良く、エストニア在住でパルノで宿を経営をされている方に出会えた。その方の配慮のおかげで、車を購入することができ、私たち夫婦は運転できることになったのだ。ほんと、感謝感謝です!!
保険も、中古車のお店が代理で手続きをしてくれて、あっというまに完了でした。
車で旅をすると、移動はもちろん、荷物も楽だし、特に物価の高い北欧やヨーロッパはホテル代も日本と変わらない。車だとキャンプできるし、車の中でひと晩過ごすこともできる。日本と違い、車での旅は簡単で気軽。高速料金もかからないし!
そんなこんなで、なんとか無事に中古車を購入しましたが、何よりも安全第一!!左ハンドル右側運転で、きょうさんも大変そうだったけど、今は徐々に慣れている様子。運転しているきょうさんは、なぜかかっこいいんです・・・笑。
私はというと、免許がオートマチック車限定なんで、運転せずに、助手席で雄大な景色を見ながら、お菓子を食べたり、歌を唄ったり、時には眠ったり、また眠ったり、そして、眠ったりと・・・大変心地よく過ごさせていただいています♪
たかさん(♀)
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2005年06月28日 |
●露版、ファイナルアンサー
エストニアには、「クイズミリオネア」があるそうです。そう言えば、ロシアのホテルでもやっていました。テレビをつけると、♪チャラララ〜っと聞き覚えのテーマ曲が!!
「きょうさん見て見て!クイズミリオネアしてるで〜!」
画面もほぼ同じ、みのもんたらしき人が司会者で、回答者が早押し問題で一位になると回答権がもらえ、お立ち台らしきあの席に座るのだ。司会者は、みのもんたよりはかなり若い人だった。同じような出題形式で、オーディエンスや50:50、テレホンと3つの特典もあり、まったく同じ。
でも、大きく違うことがありました!
それは、みのもんたのように、答えが正解かどうかを、なが〜く、ひっぱる間はなかった。意外と、はやかったです。しかし、回答前のコマーシャルはありました。
言葉はロシア語なので解からないけど、残念ながらミリオネアは、いなかったです。回答者も応援者も残念がっている様子。結構おもしろかったです。きょうさんも、思わずテレビに向かってパチリ!と写真を撮っていました!
そういえば、今も日本でクイズミリオネアしているのかなぁ〜
たかさん(♀)
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2005年06月27日 |
●「ロシアバレエ」の鑑賞術
初めて、見ました!バレエというものを!
私たち夫婦は、世界一周旅行の前にスポーツジムに通っていたんです。日本で体力づくりのため3ヶ月間!たくさんあるクラスの中で、バレエは体験さえもしなかった・・・ それくらい、縁を感じていなかったのです。バレエというものに・・・。
しかし!せっかくロシアに来たのだから・・・ということで、まずはモスクワにある名高い「ボリジョイ劇場」へと足を運びました。さすが、立派な建物!!
さてさて、今夜のロシアバレエの入場料は・・・っと見ると、2,800ルーブル!!ひとり1人およそ10,640円もするんです!
そりゃ、日本で見るよりは、格安なんだろうけど、貧乏旅行の私たち夫婦には、大金!!結局、断念してしました。
そんな事も忘れ、次の都市のサンクトペテロでは、少し時間があり、のんびり街を歩いていると、またまた劇場がたくさんあるではありませんか!時間もあることだしということで、まずはインフォメーションに行って詳しく聞くことに。チケットの買い方や相場などを教えてもらい、いざチケットショップへ。
英語が通じないチケットショップでは、根気よく図や絵で会話をし、本日のロシアバレエのパンフレットを指差し、金額を聞くと750ルーブル2,850円くらい。ん・・・正直悩む微妙な金額。やっぱり今回はあきらめよう・・・と決断。。。
最後にもう一度、一開始時間を聞くと、係りの方がなにやらパソコンとにらめっこをして「150P」と紙に書いたんです。
んん!!もしや150ルーブル??570円!ええー!!
600円足らずでロシアバレエが見れるぅ〜?
「場所は2階で端のほうだけど」と、あとで付け加えられたような感じだったが、ふたりとも「即、OK!」 やったー!!思わず、私は飛び上がってしまった。開始時間は夜8時。10時までの2時間が鑑賞タイム。ワクワクドキドキしながら、時間を待ちました。
確かにボリジョイ劇場よりは建物や広さはおとるけど、雰囲気は十分に堪能できる。一番に入場し、席はというと・・・2階の端っこ。かなり見えにくい。しかし!開始時間とともに、空いている席をロシア人たちは、どんどん、真ん中に詰めていく。私たち夫婦も同じように、空席をつめていくと、結構見やすい場所まで移動できたんです。ラッキー♪
ロシアバレエのテーマは「くるみ割り人形」。
バレエの知らない私たちでも音楽だけは、聴いたことがあり、ドラマ形式になっているロシアバレエは、とっても楽しかったです。二人して「感動した!」って言いあってました!
舞台の手前では、バレエと共に、生のオーケストラ演奏があるんです。その迫力はすごかったです。狭い会場ではとっても響き、いい体験をさせてもらいました。
それも570円で!いい時間でした。そして、とても優雅な時間でした。
今度は、自分でバレエに挑戦してみようかなっ??
たかさん(♀)
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2005年06月26日 |
●エルミタージュ美術館の緑
サンクトペテルブルグの楽しみはエルミタージュ美術館だ。
滞在時間の都合もあって、午後からの見学になったが、それでもたくさんの人がやってきていた。建物の緑と園内の緑が、とてもマッチしている。広い館内は、世界の地域ごとに部屋が分かれている。風景、肖像画、キリストを描いたものなどの絵や、銅像などの彫刻、宝石、絨毯などが展示されている。全部歩けば30キロ近くになるらしい。
どちらかと言うと、美術館へは行かないタイプだ。モスクワの「クレムリン武器庫」にしてもそうだが、博物館や美術館といった芸術品に関してはとくに疎い。(すごい!)と思うのだが、博物館や美術館で何をじっくり見るのかあまりよく分かっていない。フランスワールドカップ添乗でルーブル美術館を見学したときもそうだった。ただ、世界三大美術館という言葉に弱い。中身よりも、そんな言葉の価値に左右されてしまっているところがある。
そんなボクが楽しみにするのが、レイアウト。
美術館に来て、レイアウトを見るなんて!と怒られるかもしれないが、ボクはじっくりとレイアウトを見ている。大きさの違う絵をひとつの壁面にどう並べているのか、いくつもの銅像や彫刻をどんな順番にしているのか、どうやって見やすい順路を作っているのか、そんな「見せ方」に注目していた。大きな絵は、壁面に一枚だけなので、レイアウトも何もないし、特に決まったパターンなんてないようなのだが、空間をたっぷり使った「見せ方」はヒントになった気がする。
もうひとつのレイアウトは、風景画の構図だ。ボクは写真を撮るのが好きだ。エルミタージュ美術館で展示されている多くの作品が、どんな構図で描かれているのか、そんなコツを撮影アングルのヒントにした。もちろん、作者によって作品の調子は異なるが、光と影の微妙なバランスが克明に描かれているので、これはとても参考になった。今後の撮影にも役立てたいと思う。
昨日、「クレムリン」を歩きまわっていただけに、連日の鑑賞はさすがに足腰にこたる・・・。それでも、少しは目は肥えただろう。自己満足にゴージャスな気分を感じている。2007年アメリカ訪問では「メトロポリタン美術館」を見学して、世界三大を制覇したい。そのときは、何に注目しているのだろうか、今から楽しみだ。
きょうさん♂
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2005年06月25日 |
●クレムリン武器庫の財宝
「クレムリン」と「赤の広場」。言葉は知っていても、何がどうなのか知らなかった。
どうやら、「赤の広場」はパブリックスペースなので自由に出入りできるが、横の「クレムリン」は入場料がいる。モスクワ滞在時は「赤の広場」で記念式典などのイベントを開催していたので、残念ながら立ち入り禁止状態。その分、「クレムリン」をたっぷり満喫してきた。
「クレムリン」の中には、いくつもの教会があって、それらが見学できる。キリスト教には詳しくないのだが、その造りがすばらしい。外観は写真で見たことはあったのだが、ほとんどの教会の中は、壁面すべてに絵が描かれているのだ。キリストをあらわす絵や物語など、広い教会内を天高く、ずぅっと、上までだ。それも凝った絵がぎっしりと。
まぁすごい!指揮した人もすごいが、描き続けた人がすごい!
細かい作業だったと思う。何人で描きあげたのか分からないが、きっと何年もかかったのではないだろうか。もしかすると一生かかって描いていたのかもしれない。そんなことを想像すると、ひとつの仕事を続けていくことの尊さを感じた。
オプションで「武器庫」も見学できる。博物館見学なんて、どちらかと言うと性に合わないのだが、一生に一度来るか来ないかと思うと、奮発して入ってみた。
感想は・・・
エクセレント!!!
切符を買うまで、「高いなぁ・・・」「どうしよう・・・」と悩んでいたのがバカらしく感じるくらいよかった。
食器、宝石、よろい、銃刀など、どこから集めてきたの?と驚く量が展示されている。食器なんて、使いやすさが一番と思っているのだが、展示されている食器類は、どう見ても使いにくいものばかり。銀を中心に使った食器なのだが、重そうだし、デザインが凝りすぎていて、洗うのが大変そう。どうやって使っていたのか不思議だった。銀や金を使った、宝石類は目を疑う輝きをはなっている。馬につける宝石まであるのだから驚きだ。価値が分からないのがもったいない話だが、シンプルイズベストの考えを覆されるような新鮮さがあった。
一番のお気に入りは、馬車コーナー。ボクは、シンデレラの物語に出てくるような馬車を実際に見たことがなかった。あの世界の馬車がずらりと並んでいるのだ。すんごいゴージャスなのだ。(すごい、すごい・・・)とため息ばかりだった。当時の人は、これらの馬車に乗って、何を考えていたんだろうか。車輪に残っている深い傷が、数多くの道を走ってきたことを物語っていた。
「武器庫」の展示物に近づきすぎると、ブザーが鳴る。各部屋に常駐スタッフがいて、管理されている。「クレムリン」内も、通行可能領域とそうでないところがはっきりしていて、ちょっとでも、出ると、警備員に笛を吹かれて注意されている。写真撮影は自由だが、しっかりと管理されている。10時半に入場して、昼食抜きで退場したが16時半。「武器庫」だけでも1時間半も見学していたのだから、よくがんばったもんだ。足はパンパン・・・ いいものをたっぷり見せてくれる「クレムリン」であった。
きょうさん♂
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2005年06月24日 |
●モスクワの地下鉄は迷路
シベリア鉄道を降りると、あまりにも違う世界だった。浦島太郎の世界に例えると、竜宮城にやってきたような感じだろうか。それくらいイルクーツクとモスクワは違っていた。
まず人の量が違う。モスクワの道を歩く人の数は、圧倒的に多い。バックパックを背負って歩くと、邪魔で仕方がない。それはシベリア鉄道到着駅周辺だけではなく、それ以外の街でもそうだった。空から見れば、「ウォーリーを探せ」状態だ。
イルクーツクでは、ロシア人よりボクらのほうが歩くのが速かった。それが、モスクワでは抜かされっぱなしだ。(ロシア人って、こんなに歩くの速いの?)と思った。端正の整った顔立ちのロシア人が、後ろからやってくることを意識して通路を譲るのが必死だった。
もっとビックリしたのは、地下鉄だった。
最初に乗るときは、正直言ってビビった・・・。
モスクワの地下鉄は、地上からずっと深くを走っている。日本より、エスカレーターのスピードも速いので、どきどきする。スキー場に到着して、はじめてリフトに乗るときみたいだった。エスカレーターはとても長い。一番下は見えない。5分くらい乗っていたのではないだろうか。止まる人は右側、抜かす人は左側と整列されている。光はうす暗いので、最初は、不気味な雰囲気にも感じた。
地下の通路は、ブロンズ像や彫刻がずらりと並んでいる。(おぉ〜すごいなぁ・・・) ちょっとした美術館のようだった。それでも立ち止まる人はまったくおらず、みな足早に通り過ぎていた。行き先表示板や車内アナウンスは、ロシア語のみ。何を言っているのか分からない。だからロシア語での駅名を知っておかないと目的地へは行きにくい。乗り換えなんて、少ないヒントを元に、ゴールを目指すスタンプラリーのようだった。
そんな地下鉄だが、何度も乗っていると慣れてくる。乗り換えも簡単だ。車内も日本と同じ。ラッシュアワーも日本と同じだ。眠っている人、本や新聞を読んでいる人、笑いながら喋っている人。地下なのでか、北京のバスでよく見かけた携帯メールをしている人は、さすがにいなかった。
バックパックを背負っていてもいなくても、ほぼ全員がボクらを見ている。それくらい珍しい人種なのだろうか。それさえ気にしなければ、路線も多く、便利な地下鉄だ。世界一の国ロシアの首都にふさわしい雰囲気が地下鉄で感じられる。
きょうさん♂
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2005年06月23日 |
●祝!シベリア鉄道乗車C
「77時間」。
終わりが近づくと、あっという間の気もする。時間の使い方は、睡眠50%、会話20%、読書20%、食事10%といったところ。乗った瞬間は狭く感じるコンパートメントだが、降りるときにはすっかり自分の空間にしてしまっている。だから、離れるのはさみしい気持ちまで感じるくらいだ。
一番の楽しみは、列車が駅に停車するとき。
数時間おきに停まる駅が憩いの時間。このときばかりは、‘おり’から開放された動物のようにホームに出て背伸びをするのが習慣だった。もちろんボクらだけではなく、ほとんどの乗客が、新鮮な空気を吸おうとリフレッシュしていたようだ。ホームに降りると、その街の雰囲気が感じられる。大きな街、小さな街、人々が行き交う街、そうでない街。食べ物やお土産品を売りに来ていたりもしている。短い時間であるが、ぶらりと散歩しながら、カメラのシャッターを押していた。
乗客がどれほどトイレに行きたくても使わせてくれない(笑)車掌さんは、列車停車時は、階段の手すりなどを磨いていて、とても仕事熱心だった。車掌さんはロシア語しか話せない人がほとんど。それでも、時間を重ねるごとに、笑顔のコミュニケーションができていくのだから、時間の積み重ねが大事なことも分かる。
ひげが剃れない。だから、ぼうぼうだ。これじゃぁ、まるでドロボウ面。鏡を見なければ我慢はできるが、それでも頭はカユくなる。(シャンプーしたい!)そう願っていた。スーパーのビニール袋3つに大量に買い込んでいた。(買いすぎかな?)そんなことを気にしていたが、きれいに食べたことを考えると、いい買い方をしたようだ。
最後の停車駅を発車した。あと3時間後にはモスクワに到着する。「ロシアの首都、モスクワ」。(いったいどんな街なのだろう?)。そんな期待感が沸いてくる。シベリア鉄道を走っている77時間で、ロシアを感じる心構えをつくっているような気になる。
コンパートメントにこもっていては、何も感じることはないかもしれない。
食堂車に行ってみたり、停車駅で降りたりする。いろいろ動いてみることが、このシベリア鉄道を楽しむこと、ロシアを感じることだと思う。
『祝!シベリア鉄道乗車』、完
きょうさん♂
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2005年06月22日 |
●祝!シベリア鉄道乗車B
ロシア語を話せる旅行者は、まだ少ないようだ。
英語を話せる人がいないだろうか?そんなことを思っているのはボクらだけではないようだった。
狭い通路を歩いていると、声を掛けられた。
「あなたは旅行者ね。どこから来たの?」
「あら?日本なの。つい数日前まで日本に行っていた男性が私と同じコンパートメントにいるわ」
そう明るい笑顔で話しかけてきた、イギリスから来ているサラという女性だった。そして彼女のコンパートメントに行くと、やさしい表情をした男性が座ってた。彼の名はグラハム。彼もイギリス人だ。偶然にもイギリス出身のふたりが同じコンパートメントになったようだ。
そして、グラハムが2週間前に東京へ行って、その後ウラジオストック、イルクーツクと旅をし、モスクワを目指していることを聞いた。サラはモスクワまでは行かないようだ。また話そうと約束をして、その場は、あいさつ程度の会話で終わった。後で食堂車に行くと、サラとグラハムがいた。別の車両のイギリス人デビッドと、アメリカ人デビッドと4人で食事をしていたのだ。
ロシア語がさっぱり解からない中、英語で話せることはなんて気が楽なんだ!と思った。
そこへアメリカ人カップルのアンドリューとアリソンがやってきた。そう彼らとはすっかり仲良くなっていた。それもそのはず、北京からウランバートルへ向かう食堂車で同じテーブルとなったのが出会いだった。その後、ウランバートルのインターネットカフェで再会し、さらには、イルクーツクのバイカル湖のカフェでも三度会って、同じ列車であることを確認していたのだ。お互い(よく会うな!)と爆笑しながら、自己紹介をし合った。
オーストラリア人の女性、スイス人の男性も来て、皆で10人。食堂車は、バイカル号に乗っている外国人が勢ぞろいしたのではないかと思うくらいだった。このメンバーが集まったのはこの昼だけではなく、その夜も、次の日の昼も、夜も出会っていた。ちょっとした英語空間だったような気がする。表情豊かにビールを楽しむテーブルは、周りで目つきが変わるくらいにお酒を飲むロシア人のテーブルとは違っていたような気がする。
ボクらは、イギリス人からたくさんの情報をもらうことができた。きっと、8,9月のイギリス訪問に役立ちそうだ。余りある時間、英語の単語も教えてもらって、実りある時間であった。
久しぶりにビールを飲むと、トイレが近くなる。
だから、飲みすぎには注意!
シベリア鉄道は駅の到着前と発車後はトイレにカギがかかる。(漏らしそう・・・)そんなジェスチャーをしても、容赦はない。笑いながらも、使わせてはくれない。まるで罰ゲームのようで、このときばかりは、車掌を恨みたくなった(笑)。到着時間を見極めて、トイレに行っておかないと、ボクのように苦しい思いをする。自己管理が大切な列車内である。
きょうさん♂
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2005年06月21日 |
●祝!シベリア鉄道乗車A
ボクらがコンパートメントに入ったとき、スーツ姿の男性が窓の外を見ていた。乗客のひとりだ。
「キョウジです」。
そう手を差し伸べると、「アングレイ」と言って、照れくさそうに微笑みながら、握り返してくれた。無表情なイメージが強いロシア人だが、アングレイの場合は、どことなくやさしい雰囲気を感じた。彼の第一印象だった。英語はあまり話さないそうだ。
「旅行者なの?」とアングレイ。
「そう、モスクワまで行くの。あなたは仕事?」ボクは言った。
「まぁね、途中のクラスノヤルスクで降りるんだ」
アングレイは3泊ではなく、ほんの1泊ということらしい。あとで聞いたら、普段の移動は飛行機だが、この日は運航されていなかったので、はじめてバイカル号を使うことになったらしい。ボクらにも、なぜ飛行機を使わないんだ?と不思議がっていた。確かに移動時間の長い列車は退屈に感じるかもしれない。それでも異国の列車に乗るということは、未知の空間を感じることができて、旅情をかきたてられるのだ。
ともに、たどたどしい英語での会話だった。アングレイは窓の外を見つめるので、その会話以降、お互いの時間を過ごしていた。日が暮れ、最初のカップラーメンの夕食を終えたころ、アングレイが部屋を出て行った。
しばらくして戻ってくると、手に持っているのは、チェスだった。そしてベッドの下から上にいるボクを見上げて、「チェスやらないか?」と言ってきたのだ。
(おぉ!なんて気が利くんだ! ぜひやろうじゃないか!)
なんて言いたかったが、やり方を知らない。昔、チェス入門を読んだことはあるのだが、習得はしていない。将棋ならできるんだが、チェスのやり方をイチから教えてもらえるほどの余裕はなかった。
苦笑い。残念だけど、丁重にお断りをした。その後、アングレイはロシアのことを聞いてきた。「ロシア、好きかい?この国、どう思う?」。
ボクは驚いた。イルクーツクでロシア人と関わる限り、どことなく冷たい印象を持っていた。だからロシア人は、自分の考えがすべてで、他人の意見など聞かないタイプだと勝手に思っていたからだ。それだけに、(これはロシアを知るいい機会だ!)と思って、ベッドを降りて、彼と話をすることにした。
「日本ではあまりロシアの情報がないこと」「言葉の壁が大きいこと」「だからこそ、ロシアを知りたくてやって来たこと」などを伝えた。アングレイは、「ロシア人が英語を勉強していないのがこの国のひとつの問題なんだ」と言った。そんな客観的なコメントをするアングレイがまた意外だった。
22歳のアングレイは、弁護士だそうだ。「この国は貧しい。だから幸せになることが夢なんだ。でも幸せって難しいよね」。そんな話を聞いた。なんてしっかりした考えを持った奴なんだろう。ボクが22歳のときに、そんな考えを持っていただろうか?いや、恥ずかしながら、持っていない。。。共に流暢に英語を話せないので、ところどころ沈黙がありながらも、そんな話をしていた。
ボクもビールを飲みたくなって、買いに行こうとした。すると、アングレイが英語が伝わらないからと、ロシア語で車掌さん伝えてくれた。各号車にドリンクやスナックが置いてあるのもシベリア鉄道の特徴のひとつだ。しかし出してくれたビールは箱の中からで、決して冷たいビールではなかった。ボクは買わなかった。すると不思議な顔をしたアングレイ。「なんで買わなかったの?」。だって、冷たいビールはおいしくないからだ。
会話を続けていると、「ちょっと待ってて」と、アングレイはまた部屋を出て行った。そして5分ほどして戻ってきた。今度手にしていたのは、冷たいビールだった。「レストランにあったんだ。For you! 」。(いやぁ〜 まいったなぁ・・・ なんだか気を使わせてしまったみたい・・・) それでも、楽しそうな顔をしているアングレイの様子に甘えることにした。
ボクは、この旅で世界地図を持って移動している。アングレイは、その地図を見ながら、ロシアの魅力を語ってくれた。「ボクが住んでいるクラスノヤルスクも、おもしろい街なんだ。モスクワやサンクトペテルブルグよりも面白いと思うよ。今度、来ることがあったら、ぜひ連絡してね」。そう言って、メールアドレスと携帯番号を書き残してくれた。なんだか、うれしくなった。ほんの数時間しか話していないのに、そうやって迎えてくれるアングレイの気持ちがうれしかった。
翌朝、アングレイの降りる駅に近づいた。シーツを丁寧に畳み、ベッドを片付けるアングレイ。几帳面な男だ。シベリア鉄道の停車時間は長い。ホームまで見送ると、きれいな建物が見えた。「あれは○○なんだよ。あっちは○○なんだよ」。アングレイはホームから見えるクラスノヤルスクの街並みを紹介してくれた。クラスノヤルスクのことはまったく知らなかったが、彼のおかげで身近に感じることができた。もっと言うならば、ロシアという国が近くに感じたような気がする。
「モスクワでも気をつけてね。よい旅を!」。さわやかな笑顔とともに、さっそうと立ち去るアングレイ。スーツの後ろ姿がビシッと決まって、かっこよかった。いいロシア人、いい男、いい人間に会えてよかった。そしてこの写真を、彼のメールへ送る準備をしている。
きょうさん♂
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2005年06月20日 |
●祝!シベリア鉄道乗車@
ウラジオストックからモスクワまで「ロシア号」は6泊7日で走るらしい。ロシアという広い国ならではの鉄道だ。ボクらはイルクーツクへ寄ったので、モスクワまでの3泊4日を「バイカル号」に乗車した。
シベリア鉄道に乗ってみることは、この世界一周旅行でのひとつの楽しみだ。どんな車内なのか、何を感じ、またどんな出会いが待っているのだろう。3泊4日、77時間の鉄道の旅をご紹介する。
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ボクらは2等寝台を利用。11号車の「14」と「16」だった。「13」から「16」までの4つの寝台がひとつのコンパートメントになっている。ボクらはふたりとも上の段だったので、すでにふとんやシーツが敷かれていた。下の段は、自分で用意するようで、硬い台座のままだった。そしてテーブルには、水やジュース、チョコレートやクッキーまで置いてある。さすが、長時間の旅ならではのサービスだと思った。(あとで食べよう!)と思っていたら、翌朝、車掌さんに片付けられた。(なんだぁ、、、有料だったのか・・・)と残念。
車両には、前と後ろにトイレがある。紙もちゃんと用意されている。24時間使えるわけではなく、駅に停車する前後は使えない。車内は空調が効いている。すこし寒いくらいだ。これも列車停車時は、オフになるので、コンパートメント内はすぐに蒸し暑くなる。コンパートメント内の気温は変わりやすいので、体温調整は自分でしていく。
コンパートメント内の電気と、バッドの脇のライトがある。両方とも夜間しかつかない。下段は、窓の外からの日差しが入ってくるが、ボクらの上段は、入ってこない。だから日中はやや暗く感じる。そんなときは、通路に出て、シートに腰掛けよう。
停車駅の案内は、すべてロシア語。何を言っているのか分からないので、テーブルに置かれている停車駅案内表を見て、時間を確認して、どこを走っているのか、次の駅まで何時間なのかを把握する。日中は、コンパートメント内に音楽がかかる。ロシア音楽がほとんどのようで、知らない音楽ばかりだった。ボリュームも4段階くらいに調整できる。
中国北京からモンゴルウランバートルまで29時間、ウランバートルからロシアイルクーツクまで25時間、列車の旅には慣れてきたような気もする。食糧は、(これでもか!)というくらいに買い込んできている。今回もカップラーメンがメインだ。プリングルスはないけれど、お菓子や果物までバッチリ用意している。地図帳や「地球の歩き方・北欧」もそばに置き、旅の作戦会議に備える。洗面用具から、本、パソコンと、車内で必要なものは身の回りに置いた。
準備は万端!
(まずはひと眠りしよう)
きょうさん♂
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2005年06月19日 |
●ここが我らのバイカル湖
「深さが世界一の湖」。
イルクーツクには来たのは、そんな世界遺産バイカル湖を見てみたかったから。
バイカル湖の主要街リストヴァンカまでは、イルクーツクからバスで2時間。しかし、ルーブルへの換金手続きに手間取ったため、朝のバスには乗れずじまい。乗り合いタクシーで向かう方法もあったのだが、乗客を探す時間を失いたくなかったので、奮発してタクシーで行くことにした。
幸運にも英語を話すドライバーさん。ロシア語しか話さないというイルクーツクのロシア人が多い中、大変助かった!時速100キロも出してくれ、1時間ほどで到着した。時間をお金で買った感じだ。
いざ、バイカル湖が見えてくると、ハンドルを握る彼がこう言った。
「This is our famous lake, Baikal.」
「our(我らの)」を使うところがびっくりした。また、バイカル湖で獲れる魚、オウムリを、「世界一の魚」と説明するところも、この湖をいかに愛している様子が伝わってくる。そうやってプラスアルファのコメントで人に紹介するのもいいもんだ。
さて、「透明度」と「深さ」が世界一の湖、バイカル湖。タクシーを降りて、歩いてみる。
なんと琵琶湖の50倍の大きさだそうだ。リストヴァンカは、南の街。バイカル湖のすべてを見ることはできなかったが、水平線の彼方に、やっと対岸がうっすら見えるくらいなので、その広さは十分に実感できた。さすがに深さは分からなかったが、水際を歩いてみると、底まで透き通って見えるので、透明度が高いことはひと目で分かる。
「バイカル湖の水を飲めば長生きできる」。ドライバーさんの言葉を思い出し、さっそく飲んでみる。確かに湖の水だけあって、塩っぱくない。ちょっぴり感動した! これで10歳は長生きできる気がする・・・笑。
たくさんの露店が出ていて、うわさの名魚、オウムリも手に入れられる。サケの一種らしいが、日本では見たことがない。ガブリつくと、ほどよい脂身があって、うまかった。でも味の濃さを感じると、(もう一匹!)とお代わりをするほどではなく、ふたりで一匹でちょうどよかったかもしれない。
リストヴァンカは、思っていたよりも小じんまりとした街だった。ロシア人はもちろん、いろんな国から観光客がやってきていた。北京からウランバートルへ行く列車で知り合ったアメリカ人カップルに再会したり、イルクーツクに来る列車で同じ部屋だったイタリア人にも遭遇した。台湾人から「あなた台湾人ですか?」と声をかけられるたかさん、実に多様な国籍を感じるリゾート地、リストヴァンカであった。
添乗員夫婦きょうさん♂
2005年11月、フランス盗難で一時帰国しましたが、2月16日元気に再出発!
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2005年06月18日 |
●ロシア語圏の壁を感じる
はじめての国は、警戒心が沸いてくる。どんな街なのか、どんな人が住んでいるのか、気になるものだ。
モンゴルでお世話になった方から「青年海外協力隊はロシアから撤退した」と聞き、不安な気持ちがないわけではない。ロシアへの渡航者もそれほど多くないようだし、念には念を入れて、イルクーツクの地に足をつけた。
切符売場の女性はモデルさんのように美しく、歩く人はまるでデューク更家に習っているかのようにキマッている。車のクラクションもほとんど鳴っておらず、北京やウランバートルで見た光景とは全然違っていた。「シベリアのパリ」と呼ばれるらしいイルクーツクは、確かに美しい印象があった。
しかし、壁は厚かった。
言葉が通じない。中国やモンゴルでも言葉は通じなかったのだが、彼らからはまだ関わり合える雰囲気を感じた。目で表現したり、ジェスチャーで示してみたりするようなところがあった。しかしロシア人は、ジェスチャーは使わないし、ロシア語でまくし立ててくるように話すので、正直、参ってしまった。切符売場で切符を買うときも、街行く人にホテルの場所を尋ねるのも、冷たい雰囲気を感じた。
もちろん、すべての人がそうではないと思うのだが、ざっと10連敗と言うところだろうか・・・。まぁ外国人が日本に来たときに、英語が通じないからといって困られても仕方がないのだから、ロシアを知りたかったら、ロシア語を学んでおけということかもしれない(笑)。
もうひとつの壁に感じたのは文字が読めないこと。2泊目のホテルを探していたときなんて、地図のとおりなのに見つからない。5人に尋ねて、行ったり来たりしていたらなんと目の前を通り過ぎていたのだ。ホテルの文字も、名前の文字も、まったく予想しない文字だった。ほかにもスーパーマーケットとか、インターネットとか「キリル」と呼ばれるこの文字は、まさに暗号のようだ。
このことからも、モンゴルでどれほど日本の方にお世話になったのかが分かる。言葉にしても、文字にしても、その難易度はモンゴルもロシアも変わらないような気がする。これから世界を見ていくボクらには、これくらいの壁は早めに感じておいた方がいいのかもしれない。
きょうさん♂
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2005年06月16日 |
●モンゴルの日本人起業家
「志し」が同じの男たちと食事をする機会があった。モンゴルでビジネスを起している日本人男性たちだ。年齢は私たち夫婦と同じ30代。
彼らは、海外で現在ビッグビジネスを志して、情報交換やモンゴルの悩み、プライベートの事など心の支えになる仲間なんだろう。話している雰囲気をみているとよく分かる。私には想像できないくらいの海外ビジネスの生みの苦しみがたくさんあるのだろう。
魅力的な人たちばかりだった。
ビジネスの苦しみを笑い吹き飛ばす勢いが、私にまで届く。
メンバーの中には、コンサルタント業、パチスロ業、輸入業、ベーカリーショップ、飲食業と様々。個性もバラバラだったけど、目指す想いは同じなんだろう。
そのうちのお一方の家に泊めてもらった。男性ひとり暮らしで、おせじにもきれいな部屋とは言えないが、経営関係の本がたくさんあった。
「アリヒ」というモンゴルのきついウォッカを飲みながら、彼は自分の信念を私たちに伝えてくれた。「生きるのに命をかける」心に響いた言葉。そして、「自分のやりたい仕事だけをする。来るもの拒まずの仕事にしてしまうと、独立した意味がない」と。
男のプライドをしっかり持ち、モンゴルで闘っている彼の姿がとてもカッコ良かった!(きっと、きょうさんが憧れるタイプだろうなぁ〜)と思っていると、目を輝かせながら「尊敬します!憧れます!」って言っていた。
モンゴルの人は「アリヒ」が好きらしい。昼でも泥酔の人がウロウロしているくらいだ。
彼の部屋には、「アリヒ」もたくさんあったが、胃薬の太田胃酸もたくさんあった。胃薬を飲みながら、毎晩遅くまで仕事をしている様子だったので、ちょっと身体が気がかりだった。
もし私がその場にいなかったら、きっときょうさんは、男ばかりの仲間たちと、もっといろんな話をしていたかもしれない・・・。
海外で闘う男たちは、女には分からないプライドや意地がきっとあるのではないか。素直に(いいなぁ〜)と思った。「志し」が同じ仲間たち。自分の力を信じ、海外で自分の力をしっかりと出している人たちだった。
私たち夫婦が2年半後に帰国するころ、もう一度モンゴルに行き、彼らの成功姿をまた見てみたいと思った。私も彼らを見習って、世界の道をしっかりと歩んでいきたい。
たかさん♀
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2005年06月14日 |
●晴天ならばスポーツ三昧
3日目は朝から快晴。降ったり止んだりの2日間では見られなかった青空だ。ふらりと写真を撮ってゲルに戻ってくると、ゲルの前ではサッカーボールを息子アストラと蹴るゲル父の姿があった。
近くの子どもたちもやってきて、ゲルの前ではボールの蹴り合いがはじまった。やりたがりのボクはもちろん参加。息が切れるくらいに彼らと楽しむ。たかさんは、バレーボールを持ってきた女の子たちと一緒に楽しむ。しばらくすると、ゲル父がバスケットをやろうと言い出し、付近のゲルにも声をかけた。近所の仲間大集合といった感じになり、青空の下で身体を動かせることがうれしかった。
大草原に、バスケットゴールが立っている。その周りだけ、ドリブルがつきやすいように土になっていた。バスケットは久しぶりだ。バスケットの選手だった父の影響で中学生のときはバスケットボール部だった。どうもなじめず、熱中しなかった時代を思い出す。10分ほどして、ゲル父が「2対2をやろう」と言うので、ゲル父と息子コンビと、ボクと一緒に来ていた日本人男性ユーサクとのコンビの世界大会がはじまる。
技術勝負というより、体力勝負なので、結果は明らか。日本代表は息を切らして惜敗した(笑)。言葉が通じなくても、ひとつのボールで一緒に楽しめてよかった。ナイスシュートが決まれば笑顔で拍手を送り合う。牛フンまみれのボールを奪い合い、そしてお互いがゴールを狙ってプレーする。スポーツはいいもんだ。
驚いたのは、ゲル父の体力。42歳とは思えない。サッカーボールを一番楽しそうに蹴っていたのはゲル父だった。バスケットにしても、ハァハァと息を上げるボクらと違って余裕すら感じる。雨の日は民芸品作りに精を出し、晴れの日は子どもたちと汗をかく(汗はかいていなかったようだが・・・)。ジャージとTシャツの似合うかっこいい親父である。ボクもあんな男になりたい。
昼食が終わり、タクシーが迎えに来た。ウランバートルに戻る時間だ。全員と握手をし、たどたどしいモンゴル語で感謝の気持ちを伝える。この家族もまたステキな笑顔で手を振ってくれる。タクシーの中でビートルズの「ヘイ・ジュード」が流れる。いつになっても、この家族との出会いを思い出させてくれるはずだ。
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2005年06月14日 |
●トムクルーズで駆ける時
「うぉぉぉー!!」
「やったぁ〜い!」
大声で叫んでいた。念願かなった想いをモンゴルの大草原に吐き出していた。となりで併走する調教師の青年は、そんなボクの様子を笑って見ていた。
馬でさっそうと駆けていく・・・。映画『ラストサムライ』のトムクルーズのようになりたかった。前回できてなかった靴の位置をきちんと合わせ、いざ出発。調教師と呼ぶには若い彼らに歩いてついていく。栗色に光る馬の毛がかっこいい。(速そうだ)。気持ちが高まってくる。この前の遊牧民に教えてもらった「アチュー」みたいな声を発してみるが反応がない。(あれっ?なかなか走らないなぁ・・・)そう思っていると、ビシッ!青年が馬のお尻にムチを打ち込んだ。(イタタタ)見ているだけで痛くなる。そして「アチュゥ!」と声を出すと、馬が走りはじめたのだ。
青年が乗っている馬の足音に連れられるように、ボクの馬も足音を早める。(おぉ!)ビシッ!さらに一撃が加わると、パッパカ、パッパカ。馬がリズムよく動く。「アチュゥ!」(そう言ってやれ)と青年が目で合図。「アチュゥ!」ボクも真似をして、さらに馬のスピードが上がった。いよいよというところで、曲がり道。青年はスピードを落とした。
(どう?楽しんでる?)そんな表情の青年がボクの顔を見る。モンゴル語で気持ちを伝えられないので、「グレイト!」と親指を立てて見せた。(まだまだこれからだよ)そんな表情で先に視線を移す青年。その先には、青い空と緑の大草原が見えてきていた。
「アチュゥ!」ビシッ!お決まりのサインだ。馬が駆けていく。ボクは、お尻を浮かして、振動を避ける。ビシッ!もう一度青年のムチが打ち込まれたとき、馬のスピードは最速になった。(おぉぉぉぉ〜!)これだ〜!馬のスピードで風が向かってくる。目をしっかり開けられないほどの風だ。飛び跳ねる馬の上で、バランスが崩れないよう内股に力を入れ、この快感を味わっていた。
いったい何秒くらいだったんだろう?1分もなかったと思う。でも、それ以上乗っていると、力尽きて振り落とされていたかもしれない。トムクルーズよりも、競馬のジョッキーの方が似ていたかもしれない。たっぷりと爽快感を味わうことができた。馬の相性?何より、調教師の青年のおかげだと思う。
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2005年06月13日 |
●気分は「ウルルン滞在記」
前回の遊牧民との生活でも、ウルルン滞在記が書けることを期待していた。しかし、ゲルの主人は出張中。家族から手伝えることなく、高まる想いは不完全燃焼だった。(今回こそ・・・)そんな想いで主人の様子を見ていると、ピンとくるものがあった。主人、そう!ゲルの父は、食事が終わると、ベッドの下から大きなかばんを出してきた。
かばんの中身は、骨や角だらけだった。
牛の背骨や角を切って、器用に加工していく。小刀で細かく削り、磨き、仕上げていく作業は集中力と忍耐力の結晶のようだ。ミッキーマウス、さかな、羽を大きく広げる鷹。そんな作品が民芸品として近くのお店で売られているらしい。1個5ドルで売れれば、大きなお金になる。すべて手作業でできる芸術に驚いた。「難しそうですね」と伝えると、「お前も削ってみるか?」とゲルの父。(おぉ!)。図工の成績は良かったボクは、喜んでうなづき、手刀を借りて牛の角を削り始めた。横でじっと見つめるゲルの父。1時間後、ざらざらに汚れていた牛の角がきれいに磨かれた。ゲルの父も(なかなかいじゃないか!)と笑顔。また新しいことができたボクは、満足気でその夜を眠った。
2日目の朝も雨。外に出られない。ゲルの父は、またかばんを出してきて作業をはじめた。余りある時間。(ひと作品、作りたい!)そう考えたボクは、「牛の骨を使って、羽を広げた鷹を作りたい!」と伝えた。するとゲルの父、ボクの顔をチラリと見て、手刀と骨をボクの手に渡してくれた。(やってみろ!)そんなメッセージを感じた。手渡された牛の骨は、完成品にはほど遠い、ただの骨。ビックリした。(えっ?これからあの鷹ができるの?)。それくらい完成には長い道のりを感じた。ゴールが難しいほど、やる気が沸いてくる。完成品をそばに置き、ボクの勝手な弟子入り武者修行がはじまった。
ゲル父のとなりに座り、同じものをつくる。師匠と同じように手刀を握り、コツコツと骨を削りはじめる。(なんと気が遠くなる作業なのだろう)。そんなことも感じたが、15分と続けているうちに形ができてくるのがわかる。満足気で(どう?)と師匠に見せると、表情を少しも変えず、(ここが足りない)と手直しをうける。そしてまた削り続ける。そんなやり取りを何度も繰り返していた。弟子にとって、師匠がそばにいると実にありがたい。何事もそうやって後世に伝えていくのかもしれない。
細かい骨と手刀を握り続けていると、指もさすが疲れている。ふと気づくと2時間が経過。ゲルを打ちつけていた雨音もいつの間にか止んでいる。ただの骨からはじまったが、なんとか鷹になっているではないか。積み重ねが結果になることを感じた。師匠も、うんうんとうなづき、笑顔を見せてくれる。そして手に取ると、最後の仕上げとばかりに師匠の手で細かい部分の修正が入り、ボクの手に戻された。何かモンゴル語で言われたがボクには理解できない。きっと、(よくやった。お前のもんだ)そんなことを言ってくれたように解釈している。言葉は通じなくても、同じものを作ることでまたコミュニケーションが図れたような気もしている。最高の思い出が残った。まさに、気分は『世界ウルルン滞在記』となった。
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2005年06月12日 |
●家族でつくるボーズの味
ボーズが肉まんということは、知っていた。ウランバートルのレストランでも食べていた。
2日目の夕方、凍った牛肉がまな板の上に用意されていた。(あれっ?冷凍庫ってあったけ?)。息子アストラに聞くと、となりのゲルに凍らせる場所があるらしい。凍った牛肉を細かく切り刻む父。(おや?)オトコは料理しないと思っていたが、そうでもないようだ。さらに玉ねぎのみじん切りもはじまり、牛肉と混ぜ合わされた。今夜のメニューは何だろう?
そんな期待をしていると、母が仕事から帰ってきて、小麦粉でこねた生地をひと口大に切っていく。(もしや・・・) いつもボクが料理名を尋ねることを知っている娘インヘェは、ボクの顔を見るなり、「ボーズ」と言った。(おぉ!ゲルでも作るんだ!楽しみ!)わくわく期待がふくらむ。
このボーズづくり、それまでの料理と違うのは、4人家族全員で作るということ。ほかの料理は、娘インヘェがひとりで準備していたが、さすがにボーズづくりとなると作業が増えるのか、特別料理なのか、家族総出だった。
ひとつのベッドに集まり、仲良さそうに作る様子は、理想の家庭像と勝手に想像してしまうくらいだった。42歳の父と、38歳の母、娘インヘェは16歳。息子アストラは14歳。普段、仕事に出ていると母と娘が話す機会は少ないのか、娘が楽しそうに母に話しかける様子は、とってもうれしそうだった。それをふんふんと聞いている母。家族で話す機会があるかぎり、コミュニケーションは取れるんだろうと思った。
そんな家族の様子をほほえましく見るボクら。着々ととボーズの準備が整っていく。ボーズを上げ底の網に敷き、それを沸騰した鍋に置く。そしてふたを閉めて、あとは出来上がるのを待つだけだ。もうお腹はぐぅぐぅ言っている。(ボーズはまだか?)(肉まんはどんな味か?)そんな想いが最高潮だった。
20分くらい経っただろうか。
母が、鍋のふたを開ける。そこには、‘ぷわん’とふくらんだボーズが並んでいた。あっつあつの湯気が、うまそう〜な雰囲気をかもし出している。思わず手を伸ばしたくなる衝動を抑え、母がさらに取ってくれるのを待った。いつもの見慣れた皿に5個をのせて手渡してくれる母。さぁ待ちに待ったボーズだ!
「なんて!やわらかい皮なんだ!」。第一印象はこれだった。じつにほくほく・・・。皮そのものに、あま〜い味がする。「うまーい!」。そんな表情を見た彼らも、実に満足気。うれしそうな顔がまたうれしかった。羊肉がよく使われるらしいが、このボーズは牛肉を使っている。じゅわぁ〜と出てくる肉汁が口元からこぼれおちてきて、またそれがたまらない!(おぉ!うまい!)一同、絶賛のボーズだった。
「もっと食べる?」そんなゲル母の好意に甘えて、さらに3個をおかわり!たらふく食べて大満足だった。味はもちろん、家族で作ったボーズに大感動。間違いなく、5ツ星(☆☆☆☆☆)だ。
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2005年06月12日 |
●本場モンゴル料理を食す
「夏は、肉をあまり食べない」。そんなこと聞いたって、やっぱり食べたい肉料理。今回のテレルジツアーには食事も含まれており、肉、それも牛肉をたっぷり買い込んでの出発だったので、とっても楽しみだった。
手伝いたくても手伝えない。これがゲル生活の決まりなのか。来客は、食材に触れることもなく、彼らの調理の様子をただひたすら眺めているだけ。ゲルの中の限られた環境の中、どんな食事が出されるのか、2泊3日の食事をご紹介!
料理名『ゴヨメンティ』。到着したのは午後1時。すぐに持っていった食材を手際よく切り刻む娘インヘェ。先日の遊牧民ゲルもそうだったが、狭いスペースを要慮よく使いながら、食事の準備をする様子はお見事。レストランのシェフが見たら、雇いたくなると思う。牛肉、じゃがいも、にんじん、たまねぎを炒め、水を加え、沸騰したところで市販の麺を加えてひと煮立ち。味見を繰り返し・・・出来上がり。最初の昼食は、「肉煮込み麺」といったところ。味は日本人好みで美味い!個人的に4ツ星(☆☆☆☆)。
料理名『ブタタエホールカ』。初日の夕食。材料は、牛肉、じゃがいも、にんじん。たまねぎが入っていないのが昼食と違うところ。これを鍋で炒めるところまで同じ。そこで米を加えるところがポイント。薪を加え、さらに火力アップ。炊飯器はないので、鍋で炊き込む。10数分経つと、ゲルの中にうんまいにおいがただよってくる。さぁ出来上がり!「モンゴル風炊き込みご飯」のお味は、やや塩風味。もう少し炊き込み時間を増やせばもっと米がやわらかくなるかもしれない。個人的に3ツ星(☆☆☆)。
料理名『ウルム』。2日目、3日目の朝食。美味かった!この甘さ、マイルドさには病みつき!「これはバターか?」と訪ねたら、「違う」と。「バターは、これだ」と棚の中から正真正銘、スーパーで売っているようなバターを見せられた。確かに違う。これはなんだろう?牛のミルクを元に作っていることは確か。これをパンにつけて食べる。固まった部分の歯ごたえと、クーリムの混ざり具合がたまらない・・・!美味い!おかわりまでしてしまった。個人的に5ツ星(☆☆☆☆☆)。
料理名『ツーブン』。2日目の昼食。小麦粉に水を加え、こねはじめた娘インヘェ。こね棒で大きな生地を作ると、なんとそれで麺をつくりあげてしまった。お見事!牛肉、じゃがいも、にんじん、キャベツを炒め・・・ (ここで睡魔がやってきてしまい、気づいたときには) 出来上がり!やや麺が硬く感じ、食べながら水分がほしくなった。朝食のウルムを食べすぎたこともあり、なんと残してしまった。インヘェ、ごめんなさい、、、個人的に3ツ星(☆☆☆)。
番外編@『ネルメッヒィ』は、お酒。牛のミルクをヨーグルトにした後、それを蒸留してアルコールになるらしい。その間、ゲルは、お酒くさッァー 数時間経ってようやく「飲んでみるか?」と許可が出た。週に一度作るくらいの貴重なお酒。そう言えば、見知らぬ人もゲルにやってきては買って帰っていた。お味は・・・むむむっ!きついっ!アルコール度数のかなり高い日本酒みたい。それでも飲んだ後は、のどごしがさっぱりなので、ついつい飲み続けてしまった。アルコールの味がそれほど分からないボク個人的には、3ツ星(☆☆☆)。
番外編A『ヨーグルト』。これは、ヨーグルトで通じる。お酒もそうだが、ヨーグルトもゲルによって味は異なる。日本で言うおふくろの味か。一般的にすっぱい。かなりすっぱい。だから、かならず砂糖をかき混ぜて食べる。それもスプーン2杯。よぉーくかき混ぜると、すっぱさはなくなっている。いい味だ!娘インヘェも、息子アストラもおやつがこのヨーグルトだから、健康的。不精のボクは、かき混ぜるのが面倒で・・・個人的に3ツ星(☆☆☆)。
料理名『ボーズ』、肉まん。これは、めっちゃくちゃうまかった。感動しすぎて、別レポートでご紹介。
料理名『ホオラカ』。3日目の昼食。お父さんはじめ、皆でスポーツ三昧だったので、作り方は???。「ご飯ですよ〜」、(たぶん)そんな声に呼ばれて、行ってみると、いつものようにお皿山盛りに用意されている。見るところ、牛肉、じゃがいも、にんじん、そして市販の麺だけで作られている。「モンゴル風焼き麺」と言いたい。お味も、サイコー!運動したあとということもあって、ペロリと食っちゃうボクら。個人的に4ツ星(☆☆☆☆)。
ゲル生活の食事は、一品料理。ひと皿メニューだ。それでも、写真でお解かりのとおり、ボリュームたっぷり。だから大食家のボクでも、「足りない」ということはない。これでもか!というくらいに食べさせてくれる。でも、育ち盛りの息子アストラの食べる量はそれほど多くなかったので、来客に対するおもてなしの心があったのかもしれない。基本的にゲルを訪問する際は、食材を持ち込んでいくらしい。なので、たらふく食べたいボクらのような方は、ぜひ食材もたっぷり持ち込んだ方が満足度は増すだろう。ウランバートルで食べるモンゴル料理も美味いが、ゲルで食べる料理もモンゴルの味を楽しめる。どうもご馳走さまです!
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2005年06月10日 |
●遊牧民の魅力ある笑顔
北京語もそうであったが、言葉が通じないのは苦痛である。モンゴル語も例外ではなく、話すことはもちろん、聞くことの能力もまったくないので意図を伝えられないことは相当つらい。漢字を見せれば通じた北京人とのコミュニケーションの方がまだ楽であった。
それでもモンゴル人から温かい人柄を感じる。やってきた人を迎えてくれる雰囲気がある。なぜだろうか。観光ゲルと呼ばれる、日本やヨーロッパからの観光客を受け入れる専門ゲルもあるようだ。しかし今回ボクらがお世話になったのは一般ゲル。それほど観光客がやってこないはずなのに、不思議であった。
初日、出発時間が遅いこともあって、ゲルに到着したのは夜中の12時。深い眠りについているはずの家族を襲った訪問であった(事前連絡は伝わっているはずだが)。それでも家主はじめ、家族は布団の中から顔を出し、笑顔で微笑んでくれた。ありがたかった。その夜はゲルの床に寝袋を広げ、早々と眠った。翌日から、まったく日本語の分からないモンゴル人と、まったくモンゴル語の分からない日本人の共同生活がはじまった。
ゲルには、多くの人がやってくる。毎日、それも食事の時間が近づくと、よく人がやってきていた。その度にボクらは自己紹介するのだが、日替わりのように違う顔ぶれであった。あとで聞いた話だが、通りすがりの人でも迎え入れるそうだ。そうでなければ、ここでは生きていけないらしい。人を大切にする根本の考え方がそこにあるように思った。
コミュニケーションを支える救いだったのが、彼らから差し出された一冊のテキスト。ページも破れている。うす汚れた紫色の表紙には、モンゴル語が書かれている。裏を返せば『日本語日常会話集』と書かれてあった。中を開けば、モンゴル文字で書かれたモンゴル語に相対するように日本語が書かれている。モンゴル人は、それを読めば日本語を話せるが、日本人はそれを読んでもモンゴル語は話せない。どうやらモンゴル人向けの日本語テキストのようだ。それでも、無いよりは、ありがたい。ボクらは、そのテキストに書かれた日本語を見て、横に書かれているモンゴル語を指差し、意図を伝えていった。
モンゴル語を覚えたいので、カタカナ書きでメモしていくのだが、これが難しい。日本語で「ありがとう」は、モンゴル語で「バイルルラ」という。しかし、この発音ができない。「ル」はアルファベットの「L」や「R」とも違うようで、巻舌にしてもダメであった。何度も繰り返してみるが、その度に直されていた。最初に覚えたのが、「これはモンゴル語で何と言うのですか?」というモンゴル語。「ウーニック モンゴドール ユー ギッヒ ウェ?」 これさえ通じれば、何とか会話を重ねることができる。そうやってモンゴル語の単語を増やしていった。彼らも同じように、そのテキストを手に、ボクらに意図を伝えようとしてくれた。子どもがオモチャを取り合うように、そのテキストを取り合っていた。
わずか数日で、会話ができるなんてことはない。それでも別れ際に、悲しく感じた。彼らがどう思ったのかよく分からないが、お互いがお互いを知ろうと努めたような気がする。相手に伝えようと必死で言葉を探し、相手を理解しようと必死で聞く。コミュニケーションの原則はそんな相互理解からはじまるものだと思う。車でゲルを離れるとき、「バイラシテ(さよなら)」と手を振る彼ら。快晴の青空の下、遊牧民たちの笑顔はとってもさわやかだった。
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2005年06月09日 |
●遊牧民の夜は満天の星空
「満天の星空」
モンゴル、それもゲルに泊まったら、ゼッタイに見たかった。「満天の星空」という響きにあこがれるし、この星空が日本をはじめ世界につながっていると思うとうれしくなる。最初の数日は雲が多くて、見ることはできなかった。ゲルに泊まったからといって、毎日見られないのが自然の難しさのようだ。
ある晩、夜中にふと目が覚めた。ストーブの煙突がゲルの天井を抜けていて、その隙間から星が見えた。(もしや・・・)そんな期待に胸を膨らませ、ゲルの外に出てみると、そこにはずっと待ち焦がれていた満天の星空が広がっていた。
(わぁ・・・)
どう表現したらいいのか分からなかった。(すごい・・・) それほど当たり一面に星が散らばっているのだ。
小学生のころ、顔を見上げればすべて見られるプラネタリウムは見たことがあるが、ここではその規模が違う。オーストラリアでキャンプツアーに参加したときも、きれいな星空を見上げながら眠ったことはあった。それでも周りは森に囲まれていたので、星空は見上げるという感覚だった。
地平線より上がすべて星。大草原に灯かりひとつないこの場所で、顔を見上げなくても、目の前が星空なのだ。360度、ぐるりと見回してもその星空は続いている。時おり、流れ星も落ちてくる。星の名前なんて、オリオン座くらいしか知らないのだが、ただ見とれていた。ここぞとばかりに、カメラを出してきて、撮ったこともない星空写真にチャレンジする。
真っ暗闇の中、(メェ〜)、(ングング・・・)ヤギや羊の鳴き声だけが聴こえる空間。「満天の星空」は惜しげもなく、そのすばらしさを見せてくれた。この言葉の響きがぴったりであった。これが見られるだけでも、ゲルに泊まる価値はある。
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2005年06月08日 |
●遊牧民の食事は超質素
想像していたのは、肉料理。「モンゴル人は肉が好き」と聞いていたからだ。肉には不自由がないだろう。だからこそ、野菜を買って持って行ったくらいだ。
しかし、そうではなかった!
夏は、冷蔵庫がないのだ。だから肉の保管は難しいようで、肉はあまり食べないというのだ。干した羊肉を少し使うくらいで、肉料理と呼ぶにはほど遠いメニューだった。肉が食べられると期待していたのに、残念だった。では、どんな料理が出されるのか?次の期待だった。
主に、小麦粉を使う。餃子で使う皮のようなものを作り、じゃがいもや人参をペーストしたものをくるんで揚げた料理。あつあつで旨かった。ホクホクしながら食べる姿を見ては笑うお母さんと娘。小麦粉をこねて、米のようなかたまりを作り、それをゆでておかゆのように仕上げた料理。これは、お米?と思ったくらい、おかゆに近い口当たり。でも病気じゃないし、物足りなかった。小麦粉をこねて、麺を作り、それをたっぷりの野菜と合わせてラーメンのように仕上げた料理。これも美味かった!お代わりあるよと言われて(ジェスチャーでそう判断)、喜んで食べていた。
だいたい料理は一品。だからよく食べるボクには、正直言って物足りなかった、、、お代わりをしたボクだったが、遊牧民たちの食べる量はもっと少ない。それであんなによく働けるなぁ・・・と思った。遊牧民の生活環境にあこがれる部分もあるが、食事面だけは真似できない。エンゲル係数の高いボクらには想像しがたい現実がここにあった。日本での十分な食事環境が幸せだと感じた。
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2005年06月07日 |
●遊牧民と一緒に乗馬体験
馬に乗って颯爽と翔ってみたい。
これも体験したかったこと。アメリカで数分乗ったり、オーストラリアでも1時間ほど体験はあるが、大草原を翔けたことがない。だからこそ、このモンゴルではそんな体験をしたかった。
『日本語日常会話集』の単語を拾い出し、彼らに意図を伝え、ようやくその想いが実現するときが来た。息子ネルギィに連れられて、どこへ行くのか分からずについていく。頭の中のイメージは、映画『ラストサムライ』のトムクルーズのように翔っているのだが、なんせ馬が走らない。ネルギィに「もっと速く走りたい!」と伝えたいのだが、前を走るネルギィにモンゴル語で伝えようがない。身振り手振りで、(チャッチャカ・チャッチャカ)と示すと、ボクの気持ちを察してくれたのか、もっとお尻をたたけ!「アチュゥ!」と叫べと言ってくる。「アチュウゥ!!」真似をしてみたが、走らない。
しびれを切らしたようで、ネルギィが近づき、ボクの乗っている馬のたずなを握り締め、ネルギィの馬と一緒に走りはじめた。すると、どうしたことか! それまでうんともすんとも言わなかったこの馬が、動き出したのだ!
(やったぁ〜 これでトムクルーズだ!)
まぁネルギィに連れられているという状況はさておき、ボクは確かに草原を翔けた。ほんの数秒。あとは・・・
馬の振動があまりに激しすぎて、苦しい・・・ えっ?こんなはずじゃないで。。。ボクのイメージは、自然を翔けぬけて気持ちがいいはず。なのに、お尻の骨から肺に突き上げるような振動が痛い。前を走るネルギィは時おりボクの表情を見ながらも笑顔で翔けている。この違いは何なんだ!?これなら端から見ればロデオに乗っているようなもんだ。
ネルギィのようにお尻を浮かしてみたがうまくバランスが取れない。もっと運動神経よかったはずだが・・・そんなうぬぼれはバッサリはがされ、ボクの乗馬体験は終わってしまった。「腰を浮かしたら、うまく乗れたでぇ〜」笑顔で言うたかさんは、実に満足気だった。ボクのトムクルーズ大作戦は次の機会へ持ち越しだ。
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2005年06月06日 |
●遊牧民の貴重な家畜たち
(メェメェ〜)
最初の朝は、ヤギの鳴き声に起こされた。羊と合わせたその数、700頭。さらに牛が、親子で8組。馬までいる。ゲルを出ると、動物たちに囲まれていることが分かる。ここはムツゴロウハウスかと思ったくらい。
一番価値ある動物は羊らしい。ラム肉になるからだ。次は牛。たくさんのミルクと肉を生み出してくれるようだ。そしてヤギもミルクを出してくれる。馬は、競走馬となったりするようで、外国からも馬主が買いに来ることもあるようだ。
この動物たちが、家畜であるということを理解したのは、午後の乳搾りタイムであった。母と娘は、おもむろにバケツを持ち出し、ヤギの元へと近づいていった。そして、お乳をつかむと、慣れた手つきでお乳を搾り出していった。こんなに間近で見るのははじめてのこと。勢いよく飛び出すお乳が実にリアルだった。
(やってみる?)
そう微笑む母に促されチャレンジ!しかし出ない。(違うのよ。こうやって湿らしてから搾るの)そう見本を示してくれる母。おお!なるほど!確かにお乳が出る!驚いた!そうやってバケツいっぱいになるまで、お乳を搾っていく。
そうは言っても、1匹のヤギから出るお乳は限られている。ある程度出たら、次のヤギに移る。でもヤギも分かっているのか、逃げようとする。そこで、ヤギ捕獲縄でヤギを捕まえておくのが息子の役割だった。先に輪っかをつけた3メートルほどの棒を用意。それをヤギの角をめがけて引っ掛けていく。見事な棒さばきであった。息子が捕らえて、母娘が乳を搾る。家族のチームプレーであった。二日目はボクもやってみたが、ヤギに逃げられつづけ、息がハァハァ上がってしまった。ハードな仕事である。
ちなみに、牛の乳搾りも体験したが、ヤギのお乳は2つ。牛のお乳は4つなのだ。その分、牛のお乳の方が量が多い。こうしてバケツにためたお乳は、ミルクになったり、ヨーグルトになったり、またお酒にもなるそうだ。「人間」対「ヤギ」。「人間」対「牛」。毎日繰り広げられるこの闘いは、生きていくために必要な自然の原理に感じた。
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2005年06月05日 |
●遊牧民は家族でゲル生活
ゲルの生活をひと言で表現するなら「無駄のない生活」。この言葉が、ぴったりくる。
(ゲルってどんな家だろう?)(ゲルでの生活って、どんなんだろう?)と、ずっと興味津々に思っていた。シンプルな生活は、至るところから感じられる。ゲルの広さは、相撲の土俵くらいの大きさだろうか。中央にストーブが置いてあり、煙突が天井を抜けて外に飛び出している。ベッドは2台。夫婦のベッドと、お姉さんのベッドだ。ゲルの中の左右に配置されている。弟のベッドはなく、床で眠るらしい。食器台には最低限の食器がきれいに並べてある。それ以外のモノは、ベッドの下とゲルの骨組みに引っ掛けている。テレビとラジオ、写真盾の飾る台が一番奥に置かれてあった。
「えっ?モノはこれだけ?」それが第一印象だった。とにかく少ない。ついモノを溜めてしまうクセがあるボクにとっては、モノを減らす習慣と最低限のモノで暮らす生活はあこがれだ。
この度お世話になったゲルには、お母さんインクバイエルンと、姉ボロロ、そして弟ネルギィの3人暮らし。本来は、両親と子ども5人の7人家族なのだが、お父さんは仕事で数日間出張中。ほかの姉や弟はウランバートルで暮らしているそうだ。この家族でこの広さ。十分に足りているようだ。子どものころ、自分の部屋がほしいと言っていたことを思い出した。これだけ土地に不自由しない環境であっても、いつ移動するか分からない遊牧民にとっては、プライベートよりも、最小限のモノで生活することが重要であることのように思えた。
プライベートのない共同生活。ゲルのスペースを最大限活用する仕組みがあった。
ストーブの燃料は馬フン。草をいっぱい食べた馬のフンがこうこうと炎を出してくれる。すぐにゲルの中を暖めてくれる。ただストーブの中いっぱいに馬フンを詰めても、1時間くらいしか持たないのでこまめに換えなければならない。それも気温の下がる朝晩や料理の前に燃やすようにしているようだ。台所はないので、野菜を切ったり、小麦粉をこねたりするのは、ベッドの上。そこで手際よく下ごしらえをして、ストーブにかけた鍋で調理をしていた。
遊牧民がよく着ている服、デーリ。ヤギの毛から作っているらしい。ちょうどデーリを新調しているらしく、お母さんは型紙から生地を用意し、ストーブで温めたアイロンやミシンを使って作業していた。アイロンの温まり具合がよくないのか、頻繁にストーブで熱していた。姉のボロロは、白い生地に色糸を縫い込み、正方形が統一的に並べられた模様を作っていた。その生地がゲル内にきれいに飾られていた。
常に何かして動いている。そんな彼らだった。大草原を前にして、散歩するか、寝るか、食べるか・・・そんなボクらと違って、彼らにはやるべきことがたくさんあるように思えた。7月8月と夏が近けば、馬乳酒の季節になるらしく、またひとつ仕事ができる。冬になれば風の少ない場所へゲルを移動させ、寒さからしのぐために今より厚い冬用ゲルを造るそうだ。遊牧民の生活は、常に変化する毎日に対応するかのように思えた。ゲルは、家というより、そんな遊牧民たちの基地なのだ。
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2005年06月02日 |
●ウランバートルは刺激的
モンゴルの首都には、国の人口300万人のうち、3分の1の100万人が集まっているらしい。だから、列車から見た大草原とはまったく異なる光景だ。国土のほとんどは大草原。しかし首都は立派な都市。そんなギャップを大きく感じた。もちろん、この世界一周旅行では、モンゴルの生活を感じてみたいと思っている。だからこのウランバートルだけで、モンゴルのすべてを感じるつもりはない。早くカントリーサイドへ出て行きたいと願っている。ただ、あまりにも想像していた都市と違うので、戸惑っている自分がいる。
モンゴルといえば、「ゲルハウス」のイメージが強い。またお国柄も中国に近いと想像していたが、ロシアの方が近いらしい。確かに建物も、中国風というよりはヨーロッパ風といったほうが適切だ。もっと殺風景だと思っていたので、意外だった。建物の高さも高くないので、空がよく見えて、広大な印象を持つ。ウランバートルに限って言えば、先進国の雰囲気がある。
そんなウランバートルで、恐怖を感じていることがある。道路の交通事情だ。北京よりも日本車を多く見かけるし、洗車場もよく目に付くくらいきれいな車が走っている。もちろん信号もある。ところが・・・
車は交差点に突っ込んでくる。右折車、左折車など、歩行者信号が青になっていようが、お構いなしで曲がってくる。「いったいどこを見ているんだ!」 そう怒鳴りたくなるくらいの運転だ。しかし、そうドライバーだけをとがめるのはナンセンスで、なんと歩行者も相当なもんだ。平気で道路を横断し、車の進行を妨げている。横断歩道なんてあってないようなものだ。この街は、ドライバーと歩行者の闘いの眼差しが飛び交っている。このウランバートルで道を歩くのはかなり神経を使う。今のところ事故は目撃していないが、いつ起きてもおかしくないような気がする。日本の交通マナーは安全だと思った。ボクらは、ビギナー歩行者らしく、おとなしく手を挙げて横断することにするつもりだ。
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2005年06月01日 |
●モンゴルへ29時間列車旅
一日24時間よりも長い時間を列車で過ごす。29時間は、かなり長い時間だ。日本の長距離列車である、大阪ー札幌を結ぶトワイライトエキスプレスや、東京ー西鹿児島を結ぶ寝台特急さくらでも、そんな長い時間は走らない。国土の広さや列車の速さの違いを考えれば当たり前なのだが、29時間を列車内で過ごすという体験は、貴重である。列車内はどんな様子なのだろうか?部屋の大きさは?ベッドはくつろげる広さか?そして同室はどこの国の人と一緒なのか?期待と不安は尽きなかった。
中国・北京とモンゴル・ウランバートルを結ぶ国際列車「K23」。モンゴルを目指す人の多くが利用する。もちろんバスや飛行機での入国する方法もあったが、カラダへの負担を減らしたいことと、費用の面を考慮して、列車を選んだ。北京駅の朝7時になれば、この列車を利用する多くの人が集まってきた。バックパックを背負った欧米人の姿がよく目につく。またモンゴルから出稼ぎにきたような多くの荷物を抱えて帰ろうとするモンゴル人も大勢いた。生活品としてはあまりにも多い荷物の量だ。それらの荷物をモンゴルで売るのだろうか?そんなことを想像していた。
待っている間、イスラエルから来ているという23歳の男性と一緒だった。18歳からの軍隊が終わり、これが初の海外旅行らしい。ふたりでホームの端まで歩き、写真を撮った。列車好きはどこの国にいるようだ。北京ではあまり見かけなかった旅行者も、国際列車となると一気に増えた。カメラを持った多くの人が思い思いの場所でカメラを構えている。アメリカの大陸横断鉄道「アムトラック」や、オーストラリアの「ザ・ガン号」、「インデェイアンパシフィック号」。さらにはフランス「TGV」の出発時にも見かける光景だが、ひとつ違うことがあった。それは、車掌さんの表情だ。レンズを向けても決して笑わない。照れ屋なのか、無関心なのか、それは自分だけではなく、まわりにいる欧米人に対してもそうだった。それもまたこの国のひとつの姿のようだ。
7時40分。定刻通りの出発。4人部屋の同室は、フランス人カップルだった。フィリピンからハネムーンを続けているふたりの旅も次のモンゴルで終わりらしい。国の話、文化の違い、そんな世界観トークに始まり、ワイン試飲会、長時間にわたるトランプ大会。この29時間の旅も、彼らのおかげで短く感じることができた。
フランス人の彼らは、冷蔵庫と共に旅しているかのように、食糧をふんだんに用意してきていた。ボクらは彼らのように持ってきていなかったので、食堂車にお世話になることにした。ところが、この29時間の列車旅で一番驚いたのが、食堂車での光景だった。
日本では考えられないほどの別世界。列車がのんびりの旅なら、食堂車の時間の流れはもっとのんびりだった。わずか40席の座席は満席。ビールを飲んだり、食事をしたり、顔を赤らめながら話に華が咲いていた。ウェイトレスふたりものんびりモードで、手を挙げて呼んでいる乗客ばかりだった。ボクらが行った時間はちょうど混む時間。すでに4名がウェイティング。テーブルが空くのを「まだか、まだか」と待っている。日本なら、待つ人のことを考えてもっと客回転率が上がったりするのだろうか・・・などと、つい考えてしまうのだが、ここは優雅なのんびり空間だった。それでも待つ側の様子は日本と同じ。ボクらの前後は、オーストラリアの年配の方だったが、「あそこはまだメニューを見ているから、まだ時間がかかる」「あそこは、またビールを注文した!」など、イライラした様子で、実況解説していた。お腹が空いているのだが、異国の場で、異国の人がどんなことを考えているのかと想像しはじめると待つ時間も苦にならない。
30分ほど待ち、ようやく座席に案内された。オーストラリアの老婦人、そう実況解説をしていたふたりと同席だ。前の人が食べ散らかした食器が散乱している。彼女たちは、肩をすくめるようなジェスチャーで、(なんて汚いの?)そんな呆れた表情をしていた。ウェイトレスは呼ばなければやって来ない。いや呼んでもなかなか来ない。まるで、待つのが当然のようなのんびり空間であった。しばらくしてやっと食器が片付けられた。さらに数分後、メニューが届いた。さらに数分後、オーダーを取りに来た。そこから何分待ったことだろう・・・ やっと食卓に料理が到着した。食べることがとっても楽しみなボクにとって、空腹はつらく苦しい時間であった。しかし、オーストラリア人との会話に楽しんでいると、そんな想いも通りすぎて笑ってしまっていた。
食べては眠り、起きては会話し、窓から風を感じ、本を読み、限られた空間でできることを満喫し、列車はモンゴル国境へ。車内にて出入国審査を経て、入国。さらに列車に揺られていると、窓から見える景色は草原ばかり。北京では見られなかった青空がいっぱいに広がっていた。モンゴルにやってきた。そんな実感があった。終点ウランバートルが近づく。街の人々が手を振っている。ボクらを歓迎してくれているようだった。
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